「中野 (中野区)」の版間の差分

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1929年、[[東京都道420号鮫洲大山線|中野通り]]を陸橋化し、[[中央本線|中央線]]と立体交差させる計画が発表されたが、当時の道路状況では粉塵が橋下の商店に飛散する恐れがあり、駅北側の商店主が反対した。その結果、駅は現在地に移り北口が新設され、中野通りは線路の下を通すこととなった。この時、上記の商店主らを中心に駅北口周辺一帯の地盤を現在と同じ高さにまで掘り下げる工事を自ら行った。<ref name =戦前1>[http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d003988_d/fil/kenkyu092.pdf 政策研究報告書 中野区の商店街の発展可能性に関する研究 p.90]、中野区、2014年12月27日閲覧</ref>1931年には中野初のデパート[[丸井]]が開店し、城西地域を代表する広域商圏を持つ商業地に成長した。<ref>[http://www.0101maruigroup.co.jp/ci/history.html 社歴]、丸井グループ、2014年12月27日閲覧</ref>1937年には現在の三番街までだった「仲通り」商店街(現在の中野サンモール)が現在のブロードウェイの入口地点まで延伸された。当時は年中無休で23時頃まで営業していたという。<ref name =戦前2>[http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d003988_d/fil/kenkyu092.pdf 政策研究報告書 中野区の商店街の発展可能性に関する研究 p.90]、中野区、2014年12月27日閲覧</ref>
 
同1937年には陸軍中野学校が囲町に作られるなど軍都としての性格を帯び、1945年5月25日の山の手空襲では中野区一体も標的となったが、駅周辺は焼失を免れ、終戦後には中央線随一の[[闇市]]を形成した。復興の過程で闇市は商店街へと姿を変え、。昭和 23 [[1948]]には「仲通り」は「中野北口美観商店会」に改称した。昭和 33 [[1958]]にはアーケードを建設し、現在の中野駅前の繁華街の基礎を作った<ref name=nakano_movie/>。
 
=== 現代 ===