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Yasumi (会話 | 投稿記録)
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[[天正]]10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、[[織田信長]]が[[明智光秀]]によって討たれた([[本能寺の変]])。このとき、中国方面総司令官として備中にあった信長の家臣[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]は、直ちに[[毛利輝元]]と講和して軍を東に返して、明智光秀を討った([[山崎の戦い]])。元々大きな領地を持っていた秀吉だったが、主君の仇・光秀を討った功績によってさらに発言力を増した。
 
[[清洲会議]]において信長の後継者が話し合われると、[[柴田勝家]]が[[織田信孝]](信長の三男)を推薦したのに対し、まだ幼児だった[[織田秀信|三法師]](当時の織田家当主・[[織田信忠]]の嫡男、信長の孫)を擁立し、柴田らと対立。会議の結果、三法師を後継者とし、信孝がその後見役につくということになで[[織田政権]]が継承されこととなった
 
ここから秀吉は巧妙に信長の息子たちを排除していく。まず柴田勝家の息子・勝豊を攻めて降伏させ、信孝を孤立させ、彼から三法師を奪う。これで当主の代理という立場を得た秀吉は、1583年、柴田勝家と織田信孝を[[賤ヶ岳の戦い]]において滅ぼし、他の重臣の[[滝川一益]]を降した。そして[[前田利家]]や[[金森長近]]らを味方に引き入れる。