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== 鬼門の言い伝え  ==
現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、[[鬼門]]の方角に魔よけの意味をもつ、ひいらぎ南天を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをし、家相を気にする思想があり、根強い鬼門を恐れる社会現象がある。十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が[[未申]]であることから、[[サル|猿]]の像を鬼門避けとして祀ったりしたと、[[京都御所]]の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、[[鬼門]]に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきたが、正式な御所の、猿ヶ辻の名称由来は、上記のような理由ではなく、魔除けのために鬼門方位の[[日吉山王社]]の神の使いとされる猿を祀ることによるものである
 
また、[[京都御所]]の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。建築家清家清著 現代の家相には、家相の教え通りに凹ませていると書かれている。
 
==時代変遷==
===平安、室町時代===
陰陽道は、平安時代が最盛期であり、そして室町時代はその繁栄期であったと、吉川弘文館発行「近世陰陽道の研究」(愛知学院教授)[[林淳]]の著書で述べている。陰陽道は平安貴族社会を基盤にして、展開した呪術的な宗教であったと、林淳氏は述べ、そして貴族の間に深く広がった理由を、律令制(形法に基づく社会)の神祇祭祀の中に陰陽要素を含む祭祀がすでに数多くあったことが大きいと述べている。
 
それは、[[鎮花祭]]、[[風神祭]]、[[大祓]]、[[宮城四隅疫神祭]]、などの祭祀であると述べている。陰陽道に大きな影響を与えた神道は、創始者や教祖がおらず、そのため世界的にみても珍しい宗教で、仏教のような経典やキリスト教のような聖典がない。教えや内実はすべて神社と祭り、祭祀の中に盛り込まれていると、[[茂木貞純]]、神社庁広報誌刊「神道と祭りの伝統」で述べている。祭り、つまり祭祀により平安貴族は陰陽道と向き合っていたものと思われる。
 
同じく、吉川弘文館、「陰陽師と貴族社会」神奈川大学講師、繁田信一氏の著書の中で、新宅移徒と陰陽師、陰陽師と病気などの研究がなされ、当時の陰陽師は、医師の役目、病気の回復のためのひとつの治療方法や治療方法のト占(医師の治療が正しいのか判断)が、陰陽道の役目であったと報告されている。宅神の祭祀の調査研究も合わせてなされており、[[安倍晴明]]流の何者かが、鎌倉時代前期の著した「[[陰陽道旧記抄]]」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」との諸説が見えることから、当時の母屋、寝殿を中心にした、家宅の主要な場所をすでに神格化させていたと考えられていたと、著者の篠田信一氏は論じている。そして、新宅移徒(現在の新築移転)の際には、災い、病気から逃れるために、諸神の祭祀が広く貴族社会で行われていたと述べている。陰陽道が呪術的な宗教要素が非常に強いことから、家の諸々の神、宅神の祟りから逃れるためのさまざまな祭祀(防解火災祭、螢惑星祭など)が行われていたことが報告されている。
 
===戦国時代===
戦国期において陰陽道は、力を持った土御門家(安倍氏嫡流)であっても、京都を追われ多くは若狭に居住するようになり、それに伴って陰陽道は大きく衰微していったと、 篠田信一著 「陰陽師と貴族社会」  林淳著「近世陰陽道の研究」 同じく吉川弘文館の書籍で述べられている。 
 
===安土桃山時代===
豊臣秀吉による陰陽師弾圧が始まり、祈祷や占いを生業とする陰陽師を地方、特に尾張地区に追いやり、そして開墾をさせ、陰陽師に大地の神々を鎮めさせ、陰陽師の農民化もあわせてはかることをおこない、情報収集能力があるとみられた陰陽師を地方や敵地の近くに置くことで、敵陣の動向を監視する目的も持たせたととも思われていたと、篠田信一著 「陰陽師と貴族社会」  林淳著「近世陰陽道の研究」 同じく吉川弘文館の書籍で述べられている。 
 
 
=== 江戸時代 ===
吉川弘文館、林淳氏著「近世陰陽道研究」において、徳川政権と陰陽道の関わりは、京都の陰陽家として[[土御門家]](つちみかどけ)だけが唯一残ったことから、勘解由小路家が担当していた暦道も土御門家に引き継いだとされている。土御門家は徳川将軍に奉仕していたが、日常的には天皇に仕えていたとされており、江戸幕府に陰陽師支配の絶大的な権力、許可を与えられた土御門家であったが、陰陽道のもっとも重大な「大法」であるはずの泰山府君祭の祭壇があまりにもお粗末であったことから、後の天皇の御所で地鎮祭を行うにあたり、[[吉田神道]]に法具の借用を願いでて地鎮祭をしたとされ、中世以来の陰陽道の相伝や法具の多くを喪失し、その空白を埋めるため、吉田神道(京都吉田神社)を取り込み、その結果、陰陽道の神道化がおきたと、同書、吉川弘文館、林淳氏の「近世陰陽道の研究」で述べている。そして、なおその後、垂加神道を受容し、陰陽道は神道色を著しく濃くしていったと記されている。
 
江戸時代、天明から寛政の時代にかけて、「庶民に向けた」家相書が急増し、享和から化政にかけてその書籍の再盛期を迎えたと考えられている。それには、刊行年月の特定が出来るものと出来ないものが100冊あったとする(名古屋工業大学名誉教授、東工大教授)内藤昌の集計(ref.内藤昌,1961)。176冊の中から文化、文政、天保の年に多く出版されているという村田あがの分析結果があり、当時の「一般庶民に向けた家相書」が刊行年月が特定できない書籍が多く、いいかげんなものが多いことが立証されている。
 
吉川弘文館の書籍、篠田信一著「陰陽師と貴族社会」、林淳著「近世陰陽道の研究」で述べられているが、戦国時代に地方に追いやられ士農工商にも該当しない身分の低い賤民、遊芸民である[[声聞師]]がその後に民間の陰陽師と活動していたことの記述され、特に江戸期は、これら声聞師は、現代で言う詐欺師、だましものとして扱われており、それら声聞師の活動を学術的な家相研究としての取り扱いを注意しなければならない。
 
江戸時代は、声聞師のだましものの言い伝えが広まっただけではなく、出版の規制も松平英明、本間五郎の著物<!-- p.56 -->で、以下の事例について述べている。
# [[1696年]](元禄9年)年、風水について触れた著物の1つ、陳畊山「三才発秘」は、[[1699年]](元禄12年)年に、卯川四番船で中国から輸入されたものであるが一部墨消しと差返しの処分を受けるだけに止まらず[[1685年]](貞享2年)年以降は禁書の指定を受けた(ref.[[大庭脩]],1967<!-- おそらく、江戸時代における唐船持渡書の研究のこと -->)。
# [[1801年]](享和元年)年9月、大阪南宝寺の板元 河内屋八兵衛が出願した松倉東鶏の著書「方鑑精義大成」が風儀を乱すとの理由で不許可となる。 ただし翌年5月に再出願を行った結果7月に許可が下りた。
# [[1802年]](享和2年)年9月、大阪長堀心斎町の板元 播磨屋五兵衛が出願した「弁惑書口訣」「天分捷径平天儀図解」の2冊に対して、暦に差支えないか問題となる。 これらの本は、当時著名な暦学者であった[[麻田立達]]の鑑別と証言により許可が下りた。
 
江戸時代、庶民にいっきに広まったとされる家相ではあるが、現実の江戸時代の建築物の多くは共同長屋であり、庶民のほとんどはその長屋、裏長屋で生活をし、厠は共同で使用した歴史があり、下級武士においてもその多くが長屋生活であった。つまり、現実においては書物だけが一人歩きし、厠の方位は高貴な建物に限られていたと推測される。
 
当時、神道と深い関係を持った陰陽道であったが、徳川幕府が、社1に対し、寺9という、割合で寺を重用する傾向になり、その陰陽道、家相も仏道の影響も大きく受けていったことが想像される。
 
=== 明治・大正・昭和 ===
[[宮内貴久]]の著物<!-- p.不明 -->によれば、政府から各府県に対して、民族調査を命じ生活細部に影響を及ぼす禁令を敷いた。特に、[[1872年]](明治5年) には、教部省により淫祠邪教の類として家相も直接的に禁止されることとなった。と述べられている。そして、この流れを受け継いだ大正時代には、学会誌「建築雑誌」や各種新聞雑誌の類などを行い、この運動は昭和初期まで続くこととなり民俗学において、民家研究や民族宗教研究といった研究分野での進展がなかったと分析している。明治から戦後まで、家相は隠秘、停止されている。
 
その結果、現在の日本は鬼門を単純に避けることを家相としてしまい[[1946年]](昭和21年)年、文部省迷信調査協議会によれば「鬼門を避けるか」という問いに関して、信じるかどうかを別として「避ける」という回答が2/3に及んでいると報告されている。
 
その結果、現在の日本は鬼門を単純に避けることを家相としてしまい[[1946年]](昭和21年)年、文部省迷信調査協議会によれば「鬼門を避けるか」という問いに関して、信じるかどうかを別として「避ける」という回答が2/3に及んでいると報告されている。
 
<!-- 宮内貴久著物, p.9 -->
1960年代末、[[清家清]]によって、建築計画学、建築史学、地理学の3分野から研究が進められることとなる。清家清は、建築学の観点からある一定の科学性が認められると論じたとされているが、陰陽道、神道、仏道からの観点からの研究はなされておらず、祭祀を含んだ家相研究にはいっさい踏み込んではいない
 
 
[[村田あが]]の著物<!-- p.220-->によれば、江戸時代の家相学では、畳数に陰陽五行での「木」「火」「土」「金」「水」を割り当て、[[相生]]、[[相剋]]を判断していた。 [[村田あが]]によれば江戸時代の家相説では、その一例として「九畳八畳の続き間の如きは、土生金の吉相なり」(かぎ括弧部は村田あがの著物より引用。)といったように使われていたとされている。
 
=== 家相の基準点、中心点の設定法 ===
家の中心を設定する説は、15以上の中心流派が存在した。大まかには13の考え方がある
 
参考文献 宮内貴久 著  家相の民俗学 (日本歴史民俗叢書) (2006/3)
# 屋敷地を中心とする
# 1階の家屋の形から対角線をとり、中心とする
# 2階の家屋の形から対角線をとり、中心とする
# 1階、2階の家屋の形から対角線をとりその平均を中心とする
# 大黒柱を中心とする 太極柱を中心とする
# 囲炉裏を中心とする
# 神棚を中心とする
# 床柱を中心とする
# 母屋と屋敷地の中心を中心とする
# 大棟を中心とする
# 住宅は主人の正寝を中心とする
# 商店は店の間を中心とする
# 武家は玄関を中心とする
# 惣構の中心とする
# 大門は庁事 傍屋は大楼を中心とする (宮廷の建築)
 
[[宮内貴久]]は<!-- p.92 -->著書の中、中心点の統計をとっており(276の統計の内)建物の対角線を中心とする説にも多くの流派があるとしている。ちなみに対角線から中心を探す流派は 170/276 あるが、1階の対角線の説、2階の対角線の説、1.2階の平均の対角線の説、同じ建物の対角線を中心とする説においても、数多くの流派があることが報告されている。屋敷地を中心とする説は、17/276、大黒柱を中心とする説は、11/276、囲炉裏を中心とする説は、7/276 その他不明なものが、85存在するという、統計をとっており、家相の基準点は多種多様な中心点が存在したことを記述している。統計からすれば、どの中心流派も特出していない。
 
== 論争 ==
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== 主たる参考文献 ==
* 江戸と江戸城 内藤昌 SD選書 1966年1月
* 篠田信一 著 「陰陽師と貴族社会」 吉川弘文館
* 林 淳 著 「近世陰陽道の研究」 吉川弘文館 
* 内藤 昌 著 「城の日本史」 (日本放送出版協会 刊 1979) 
* 松平英明,本間五郎 著、「知らねばならぬ科学的家相の話」(欧亜社,1932.--)、p.51, 56 など
* 宮内貴久 著、「家相の民俗学」(吉川弘文館,2006.4 ISBN 4-642-07367-1)、p.9, 10,72 など
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* 宮内貴久 著 「風水と家相の歴史」 吉川弘文館 2009.5
* 宮内貴久 著  家相の民俗学 (日本歴史民俗叢書) (2006/3)
* 茂木貞純 著 「神道と祭りの伝統」 神社庁広報誌刊
* 日本仏教の礎 佼成出版社
*現代の家相 新潮社 (1989/01) 清家清