「千徳政氏」の版間の差分
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[[弘前藩]]に残る記録には、主家である[[南部氏|南部家]]を裏切って[[津軽為信]]と同盟を結び、その津軽統一に協力した人物と書かれている。しかし生没年や系図などはそれぞれ史料により異なるためはっきりした事は分かっていない。
天正11年([[1583年]])1月、[[津軽石氏]]と[[津軽石川]]の漁業権を巡る争いとなり、
天正13年([[1585年]])4月、南部家への反逆に激怒した[[南部信直]]の命を受けた、名久井城主[[東政勝]]を大将とする3000の軍勢が浅瀬石城を攻めるも、これを撃退した<ref>『[[津軽一統志]]』</ref>。なおこの合戦に為信が援軍を出さなかったことが、後々の千徳氏と津軽氏の不和に繋がったとされる。同年、為信と共に[[田舎館城]]主の[[千徳政武]]を攻め滅ぼした。死期は史料により食い違うが、『青森県史』『岩手県史』では子の政康が為信に討たれたのと同じ[[慶長]]2年([[1597年]])説を採っている。千徳家の家臣が残した文献では[[天正]]16年([[1588年]])に没したと言う。
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