「萩の乱」の版間の差分

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==概要==
前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、[[熊本城]]下での神風連の決起を聞くと旧[[藩校]][[明倫館]]を拠点に同志を集め、[[10月26日]]には県庁を挟撃するため[[徳山市|徳山]]の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。[[10月28日]]には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、[[天皇]]に[[直訴]]するため[[須佐町|須佐]]より[[山陰道]]を東上するよう方針を転換した。しかし、悪天候で断念した上、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという内容説有りを聞きにより一旦萩に戻ったためそのまま所、待ち伏せていた藩兵政府軍と市街戦となり[[県令]][[関口隆吉]]を敗走させた。
 
その後、前原らは軍勢を[[小倉信一]]、[[有福洵允]]にまかせ幹部5名のみ別行動をとったが、小倉らは萩で[[三浦梧楼]]少将率いる[[広島鎮台]]と軍艦[[孟春 (砲艦)|孟春]]の攻撃を受け、[[11月6日]]までに政府軍により鎮圧された。この際鎮圧に従軍した清水清太郎の日記では「賊徒凡三千五百人」とある。また、前原・奥平ら幹部と従者白井林蔵・馬来木工の7名は[[東京]]へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の[[出雲市]]内にあった)に停泊中、[[11月5日]]に島根県令[[佐藤信寛]]らに弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、前原は決起の前に元[[会津藩]]士で親交のあった[[永岡久茂]]と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件([[思案橋事件]])を起こしている。
 
[[12月3日]]に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・[[岩村通俊]])にて弁明の機会無しに関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説有り)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも)この裁判の処罰は[[司法卿]][[大木喬任]]により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。
なお、[[松下村塾]]の塾頭[[玉木文之進]]([[吉田松陰]]の叔父)は[[養子]]である[[玉木正誼]]([[乃木希典]]の弟・萩での市街戦で戦死)や甥・[[杉民治]]の長男で吉田家の家督を相続していた[[吉田小太郎]]、そして前原をはじめ多くの塾生らが事件に関与した責任を感じ[[切腹]]した。