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=== 没年 ===
高信は没年がはっきりしていない。民間記録である『永禄日記』は、元亀2年([[1571年]])5月5日に[[津軽為信]]の奇襲により石川城で討ち取られたと伝えている<ref>永禄日記元亀2年5月5日「八幡宮競馬、早朝ニ見物仕候。同夜大浦殿五百騎程ニ而石川大淵ヶ崎へ押寄大膳殿を落し候由。同日和徳讃岐も落し候而諸人驚入候。尤大浦殿ハ堀越町居飛鳥殿城江入り候。」</ref>。しかし、三戸南部の資料<ref>[[奥南落穂集]]では天正8年([[1580年]])石川城にて病死説、[[祐清私記]]では天正9年2月21日津軽で病死説を採っている。</ref>ではこの時には死なずに生き延びて、天正9年([[1581年]])6月8日に世を去ったとも伝えているのである。また[[黒石市]]浅瀬石星田文書にも「石川左工門之介源高信は南部に行きて未だ還らず。城中支うる者なかりしかば為信は戦わずして攻略すること得たり。」「…南部高信が来たりて津軽を総監せしが、留守中為信に攻められ落城したり。」とあり高信の生存を示している。
 
== 脚注 ==