「七人の侍」の版間の差分

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3人は45日間「水口園」に閉じこもって脚本を書いていたのだが、その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて声なんかかけられないほどであった。七人の侍のキャラクターのイメージは大学ノート数冊にびっしりと書かれていたという。
 
黒澤は、この映画を何十回も見たという[[井上ひさし]]との対談で、どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか問われると、この脚本の根底にあるのは[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』である。その中からいろいろなことを学んでいる。また、[[アレクサンドル・ファジェーエフ]]の『壊滅』も下敷きになっていると答えた<ref>『黒澤明「夢は天才である」』文藝春秋1999年</ref>。
 
黒澤は日本画壇の長老[[前田青邨]]を美術監修に迎えた<ref name="黒澤明" />(青邨はクレジットされていない)。青邨は「(歌舞伎の影響の強い)従来の時代劇の鬘はおかしい。虎屋の羊かん見たいな髷がのっかっているのは言語両断、もっと剃り込んでいて低いはず」と、鬘の形を指摘し、鬘は従来のものよりも月代を耳の近くまで剃り込み、側面の髪を低くしたものを採用した。また、青邨の弟子である[[江崎孝坪]]も衣装考証として参加。鎧兜や[[三船敏郎]]が着用した武具は[[甲冑師]]の[[明珍宗恭]]が製作指導に当たった。