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=== 保科正之 ===
[[ファイル:Hoshina Masayuki.jpg|thumb|180px|保科正之]]
鳥居家改易後、保科正之が寛永13年(1636年)7月に[[信濃国|信濃]][[高遠藩]]3万石から山形20万石に加増移封された<ref name="高遠藩20">長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』、P20</ref><ref name="山形藩70">横山『シリーズ藩物語 山形藩』、P70</ref>。正之は[[徳川秀忠]]の息子で、[[徳川家光|家光]]の異母弟である<ref name="山形藩70"/>。しかし3万石の身代がいきなり20万石り、さらに山形という東北の抑えの枢要地を任されたことから、急ぎ家臣団の増強を図ることを余儀なくされた。そこで家光より命じられ改易された鳥居家の旧臣の召抱えを行なったが、正之は鳥居家旧臣も人柄を見て召抱えたという<ref name="山形藩71">横山『シリーズ藩物語 山形藩』、P71</ref>。
 
正之は奉行制度を整備して民政を整え、家臣の掟として「家中仕置」18条と「道中法度」13条を制定し、武芸・忠孝・質素倹約から喧嘩口論・大酒好色の禁止などを定めた<ref name="山形藩72">横山『シリーズ藩物語 山形藩』、P72</ref>。また正之は寛永15年(1638年)から翌年にかけて藩内検地を行なった<ref name="山形藩73">横山『シリーズ藩物語 山形藩』、P73</ref>。寛永20年(1643年)7月、3万石加増の23万石で[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]へ加増移封された<ref name="山形藩80">横山『シリーズ藩物語 山形藩』、P80</ref><ref name="会津藩34">野口『シリーズ藩物語 会津藩』、P34</ref><ref name="会津藩40">野口『シリーズ藩物語 会津藩』、P40</ref>。