「慶長出羽合戦」の版間の差分

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と、城兵側による激しい抵抗をつぶさに描いている。しかしやはり兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の激しい抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。
 
9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線[[上山城]]<ref>一説には上山氏の室町期からの居城であり[[山城]]の[[高楯城]]から出撃したともいう。</ref>に攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・[[里見民部]]であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は善戦した。民部は城に籠もっていても芸が無いとばかりに、城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で激戦が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した[[草刈志摩]]に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。背後を襲われた上杉軍はたちまち大混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を激しく攻める。上杉方は[[木村親盛]]が[[坂弥兵衛]]なる者に討ち取られた他、[[椎名弥七郎]]をはじめとする将兵の多くが討たれた。一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。
 
一方、庄内飽海方面では最上方の支援を受けて[[朝日山城]]に復帰した[[池田盛周]]等が一揆を起こし、酒田東禅寺城主[[志駄義秀]]と対峙したものの、精強な上杉軍を前に一揆勢は敗退し、志駄義秀は[[最上川]]を遡る軍で、下秀久は[[大越 (山形県の峠)|六十里越]]を通る軍で[[村山郡]]の最上川西岸地域に侵入した。9月15日までに[[寒河江城]]・[[白岩氏|白岩城]]が、9月18日までに[[谷地城]]・[[長崎中山氏|長崎城]]・[[山辺城|山野辺城]]などが落城した(『上杉家御年譜』『九月十八日上泉泰綱書状』)。また、直江兼続本隊の別動隊が[[白鷹町|白鷹]]方面から五百川渓谷沿いに進軍し、八沼城・鳥屋ヵ森城などを落として[[左沢楯山城|左沢]]まで進出した後山野辺で本隊と合流している。
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== 慶長出羽合戦における兵数について ==
長谷堂城の戦いについては、当時の良質の史料がほとんど残されておらず、兵数も後世の[[軍記物語|軍記]]などに頼ることになるが、これらは誇張された部分も多く、それぞれに数の開きがあって確実な兵数は不明といわれる。例えば、上杉軍撤退の時の双方の死傷者は、最上側では「味方の戦死者623人敵の戦死者1580人」とするが、上杉側は「敵の戦死者2100余り」としている。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==