「天神川 (京都市)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
下手侍 (会話 | 投稿記録)
Waffle2 (会話 | 投稿記録)
加筆他
30行目:
1935年(昭和10年)6月の京都水害(「鴨川水害」とも呼ばれるが、浸水面積は天神川、桂川沿いのほうが広い)で被災後、花園のより南側は現在のように付け替えられたが、丸太町通り以南では[[天井川]]となって蛇行しながら西院から西京極の東側から吉祥院へと流れていく。御室川は宇多川を合流部から天井川となって南下、途中西高瀬川と立体交差して西京極をへて西中付近で桂川へと注いでいた。それが京都水害で決壊付け替えが決定したが着工されず紙屋川周辺住民が昭和13年9月に勤労奉仕で着工、昭和15年に本格着工したが戦時下で計画大部分は中断した。昭和26年7月の水害で丸太町通りとの交差部付近で決壊して西の京地区が浸水した。御室川では山陰線下流の5ヶ所で決壊、沿岸の常盤・太秦地区が浸水した。さらに有栖川、瀬戸川が氾濫し、こられらの氾濫は合流し東梅津から南へ山内・西院・西京極を水没させた。被害は床上浸水1473戸・床下浸水5177戸を出した。被災後に再度着工され29-30年にかけての工事で御室川は石積み護岸のかみそり堤防となった。また昭和33年には支流の紙屋川に砂防ダムが造られた<ref>参考文献・植村善博著『京都の治水と昭和大水害』文理閣 2011年4月発行</ref>。
 
=== ダムおよそ50軒の集落 ===
紙屋川1953年に土砂災害防止ために砂ダムの内側に50年以上前かが設け不法占拠状態の民家れた立ち並び2012年7月15日の大雨で約20軒の浸水被害があり住民4人をボートで救出する騒ぎがあ完成直後から建設に関わった<ref>とみられる[[http://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/cmsfiles/contents/0000132/132345/(siryou2)7gatu8nitiooamehigaijyoukyou.pdf 平成24年7月15日大雨・洪水警報に伴う被害状況:京都市]</ref>。住民の大半は在日韓国・朝鮮人で高齢化]]たち著しい。京都府は立ち退きを視野堆砂敷動き始めたが立ち退き後の民生活宅を建て、「不法占拠」見通しは立ない為、大半のちで民に立ち退きの意思はなみ着ている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2013/130403.html 取材ノートから-紙屋川の砂防ダム内集落 住民との対話が不可欠] [[京都新聞]] 2013年4月3日</ref>。
 
2010年7月に浸水事案が発生。2012年7月15日の[[平成24年梅雨前線豪雨#.E4.BA.AC.E9.83.BD.E5.BA.9C|集中豪雨]]でも30棟の床上浸水被害があり、住民4人がボートで救出される事案が発生した<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/cmsfiles/contents/0000132/132345/(siryou2)7gatu8nitiooamehigaijyoukyou.pdf 平成24年7月15日大雨・洪水警報に伴う被害状況:京都市]</ref>。このように大雨の度に繰り返し浸水していることに加えて、2014年8月には[[広島県|広島]]で多数の犠牲者を出した[[平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害|土砂災害]]が起こり、防災のあり方に注目が集まったため、京都府はそれまで黙認していた姿勢を転換して住民の自主移転を視野に本格的に動き出した<ref>[http://www.sankei.com/west/news/150105/wst1501050039-n1.html 京都市の砂防ダム内に集落 60年にわたり“不法占拠” 京都府、退去求めて本格対策へ(1/3ページ)] - [[産経新聞|産経]]WEST 2015年1月5日</ref>。しかし、高齢化が著しい住民の間には「なぜ今更」という反発や、立ち退き後の生活の見通しが立たないことへの不安が広まっており、さらには住民組織がなく住民代表もいないために個別対応を迫られていることも重なって、住民側との協議は難航している。
 
== 流域の自治体 ==