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RJANKA (会話 | 投稿記録)
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[[明治維新]]後、鷹狩は[[大名]]特権から自由化され、[[1892年]]の「狩猟規則」及び[[1895年]]の「[[狩猟法]]」で9年間免許制の下に置かれたが、[[1901年]]の改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。[[明治天皇]]の意により、[[宮内省]][[式部職]]の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、[[第二次世界大戦]]後、[[宮内庁]]による実猟は中断している。幕府・宮内省鷹匠の技術は、[[村越仙太郎]]([[1857年|1857]]? - [[1937年]])・[[花見薫]]([[1910年|1910]] - [[2002年]])ら、退職した宮内省/宮内庁鷹匠により民間有志に伝えられ、現在活動している鷹狩従事者([[松原英俊]]を除く)は、特定流派名を名乗るか否かに関わらず、そのいずれかの技術的系譜を引く。
 
早期の民間団体としては、[[中西悟堂]]も発起人に名を連ねた日本放鷹倶楽部([[1936年]])があったが中断した。村越に師事した丹羽有得(1901 - [[1993年]])の門下からは日本鷹狩文化保存会、森覚之丞研究会、吉田流鷹狩協会など、花見薫の門下からは[[日本放鷹協会]]が結成されている。[[大原総一郎]]が丹羽を招聘して設立した日本鷹狩クラブは、大原の没後の1982年に改組・改名され、日本ワシタカ研究センターとなっている<ref>[http://www.wa.commufa.jp/jfc/index.html 日本ワシタカ研究センターサイト]「沿革」の項</ref>。平成に入ってからは独自に[[隼]]の訓練を編み出した石橋美里がスタジアムに寄生する[[カラス]]を撃退するなどの活躍がある
 
=== 明治以降(東北) ===
一方、明治以降、[[東北]]地方において、当初[[士族]]層・一定の資力のある農民・[[マタギ]]の間でクマタカによる雪山の鷹狩が広がりを見せた。クマタカの飼育自体は[[鎌倉時代]]から見られ(古今著聞集)、中世の鷹書においても「角鷹」への言及が見られる。東北地方の「鷹使い」の起源は明らかでなく、幕末以前に遡る見方もあるが、用具とその名称に共通・類似するものがあることから、武士の鷹狩が土着化したものと見られる。名手として知られた三浦恒吉([[1863年|1863]] - [[1938年]])は、院内の伝助なる人物の流れを汲むが、旧[[新庄藩|戸沢藩]]鷹匠家の佐々木甚助とも親交があった。東北地方の「鷹使い」は生業鷹匠として発展したが、[[第二次世界大戦]]後の経済状況の変化で急速に衰亡し、武田宇市郎(1915-1992)の没後、現在では[[沓沢朝治]]の下で1年間学んだ松原英俊の他、平成に入ってからは独自に[[隼]]の訓練を編み出した石橋美里スタジアムに寄生する[[カラス]]を撃退するなどの活躍がある。
 
== 脚注 ==