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'''福留 繁'''(ふくとめ しげる、[[1891年]]([[明治]]24年)[[2月1日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[2月6日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#40期|40期]]。最終階級は海軍[[中将]]。
 
== 生涯 ==
[[1891年]]2月1日[[鳥取県]]西伯郡所子村大字福尾(現[[大山町]])の[[農家]]に生まれる。[[1905年]]年4月鳥取県立米子中学校(現[[鳥取県立米子東高等学校]])に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった<ref>勝田ヶ丘の人物誌編集委員会(2000年)、169頁。</ref>。1909年9月11日[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#40期|40期]]生として入校。[[1912年]](明治45年・[[大正]]1年)7月144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。{{#tag:ref|同期には[[宇垣纏]]、[[大西瀧治郎]]、[[山口多聞]]らがいる。|group="注釈"}}
 
[[1924年]]12月1日少佐、[[海軍大学校]]甲種24期に入校。[[1926年]](大正15年)11月25日首席で卒業。[[1929年]][[中佐]]。[[1930年]](昭和5年)12月1日人事局員。[[1932年]]([[昭和]]7年)12月欧米各国へ留学。[[1933年]](昭和8年)11月15日海軍[[大佐]]、[[連合艦隊]]首席参謀兼第一艦隊参謀。[[1934年]](昭和9年)11月15日軍令部第二課長。[[1935年]]10月30日[[軍令部]]第一課長。