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en:John Adams Dix 23:06, 15 Feb 2006 UTC の翻訳。Authors: w:user:Lst27, w:user:Postdlf, w:user:Gzornenplatz, w:user:Rogerd, w:user:PaulHanson, et al. 19世紀の米財務長官、ニューヨーク州知事。
 
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== 生涯 ==
=== 青年期 ===
[[1810年]]、ディクスは[[ニューハンプシャー州]][[ボスコーエン]]で誕生した。ディクスは[[1824年]]に士官候補生として[[英国陸軍砲兵隊]]に参加した。その後ディクスは大尉となり、[[アメリカ合衆国陸軍]]に入隊した。
 
[[1826年]]、ディクスはキャサリン・モーガンと結婚した。キャサリンの父親の[[ジョン・モーガン (ニューヨーク州の政治家)|ジョン・モーガン]]はアメリカ合衆国下院議員を務めた経歴を持つ人物であり、2人の結婚後、モーガンはニューヨーク州[[クーパーズタウン]]に保有する土地の監視業務をディクスに委託した。[[1828年]]、ディクス夫妻はクーパーズタウンに移り住むと、そこで弁護士業を開業した。
 
=== 官僚時代 ===
[[1830年]]、ディクスは同州[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]に移り住んだ。ディクスは翌[[1831年]]ニューヨーク州知事[[エノス・スロープ]]からニューヨーク州事務次官に指名され、[[1833年]]まで同職を務めた。
 
[[1845年]]、ディクスは[[サイラス・ライト]]の辞任により空席となった議席を埋めるため、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]からアメリカ合衆国上院議員に選出された。ディクスは[[1849年]]の任期満了まで上院議員を務めたが、2期目の再選には失敗した。また[[1848年]]にニューヨーク州知事選挙にも[[自由土地党]]から出馬したが、当選はならなかった。その後[[1860年]]、ディクスは[[ニューヨーク市]]の郵政局長に就任し、[[1861年]]までその職を務めた。
 
=== 財務長官時代 ===
[[1860年]]、[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]の[[フィリップ・トマス]]が南部諸州の連邦離脱に伴いその職を辞任すると、東部の富豪からディクスを後任として据えるべきだという声が上がった。[[ジェームズ・ブキャナン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は世論の支持に後押しされ、ディクスを財務長官に指名した。ディクスは翌[[1861年]][[1月]]に財務長官に着任し、ブキャナン大統領の任期満了となる同年[[3月]]までその職を務めた。
 
財務長官としてディクスは、大きな不況に見舞われた合衆国経済を立て直すため、銀行からの資金借入れを試みた。この政策は前任のトマスも試みていたが、トマスが南部出身であったために北部の投資家からの支持を受けることができなかったために失敗していた。ディクスはそれまでの「教養ある作家、流暢で活発な演説家、判断力のある政治家」としての評価から、多くの資金獲得に成功した。
 
=== 南北戦争時代 ===
やがて[[南北戦争]]が勃発すると、[[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]]に滞在していたディクスは、財務省の職員に対して「[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]を引きずり降ろす者は、たとえそれが誰であろうとも、その場で撃ち殺してしまえ」という電報を送った。その電報は南部の支持者によって妨害されたために実際には財務省の職員へと配達されなかったが、その文章は報道により周知のものとなった。そしてディクスは、南北戦争初期の合衆国の英雄として知られるようになった。
 
南北戦争においてディクスは、合衆国軍の少将として、[[1862年]][[6月]]から[[1863年]][[7月]]までバージニア地域で指揮を執った。また[[1863年]][[7月]]から[[1865年]][[4月]]までは、東部地域において指揮を執った。そして終戦後、ディクスは[[1866年]]から[[1869年]]まで駐フランス公使を務めた。
 
=== 晩年 ===
[[1873年]]、ディクスは[[ニューヨーク州知事]]に選出された。70歳代で知事に就任したディクスは、歴代の州知事の中で最も年老いた知事の一人として、[[1875年]]までその任を務めた。さらに2選目を目指し[[1874年]]の選挙にも出馬したが、当選はならなかった。[[1876年]]にはニューヨーク市長選挙に立候補したが、同じく敗北を喫した。