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'''ゾフィー・マグダレナ・ショル'''('''Sophia(Sophia Magdalena Scholl''', [[1921年]][[5月9日]] - [[1943年]][[2月22日]])は[[白いバラ|白バラ抵抗運動]]の主要メンバーの一人。[[非暴力]]によって[[ナチス・ドイツ]]に抵抗するも国家反逆罪により、[[民族裁判所]]で兄の[[ハンス・ショル]]、[[クリストフ・プロープスト]]とともに死刑判決を受け、処刑された。
 
'''ゾフィー・マグダレナ・ショル'''('''Sophia Magdalena Scholl''', [[1921年]][[5月9日]] - [[1943年]][[2月22日]])は[[白いバラ|白バラ抵抗運動]]の主要メンバーの一人。[[非暴力]]によって[[ナチス・ドイツ]]に抵抗するも国家反逆罪により、[[民族裁判所]]で兄の[[ハンス・ショル]]、[[クリストフ・プロープスト]]とともに死刑判決を受け、処刑された。
 
== 生い立ち ==
ゾフィーは、1921年に[[フォルヒテンベルク]]の市長である父ローベルト・ショルの5人兄弟の4番目の子どもとしてこの町で生まれた。ゾフィーは、田園の自然の風景のあるのびのびとした環境で幼年期を過ごし、[[1930年]]にルートヴィヒスブルクで2年間を過ごした後、[[1932年]]に父ローベルトが税理士兼コンサルタントとして落ち着くため、[[ウルム]]へ引っ越した。
 
[[1932年]]、ナチスの少女組織である[[ドイツ女子同盟]](BDM)に入団するものの、組織に対する疑念を抱くようになり、リベラルな思想の持ち主である父ローベルトのナチスへの批判精神などの影響から、ドイツ女子同盟からますます距離を置くようになった。また、[[シュトゥットガルト]]から派遣された上位の女性指導者が課題図書として何を読むか提案したときに、ユダヤ人である[[ハインリヒ・ハイネ]]の本を課題図書とするよう強く主張したほか、ナチス・ドイツで禁じられた一般に入手することのできない[[トーマス・マン]]の本などを彼女に理解のある友人の手を通して読むなどして、ナチスの思想に抵抗した。また彼女の一家と親しい「退廃的」とされ、ナチスによって追放された画家[[ベルトル・クライ]]、[[ヴィルヘルム・ガイヤー]]がゾフィーを援助した。
 
[[1937年]][[11月]]、非合法活動を理由に'''dj.1.11(11」(ドイツ青年会)'''に対する取り締まりが行われ、姉インゲ、弟ヴェルナーとともに[[ゲシュタポ]]によって逮捕されたことは、ゾフィーに大きな精神的打撃を与え、ナチス体制に対する独自の判断、思考を幼いながらも熟成させることを促進させた。(兵役に就いていた兄ハンスも逮捕された。ゾフィー自身は「男の子と間違えられて」の逮捕だったため、取り調べを受けることなくすぐに釈放されている。)
 
[[1940年]]、[[アビトゥア]]を終えたものの半年間の勤労奉仕(ドイツ語で[[:de:Reichsarbeitsdienst|Reichsarbeitsdienst]])を済ませないと大学に入学できないことから、ゾフィーは勤労奉仕に代わるものとして、ウルムにあるフレーベル保母養成所で過ごしたものの、当局はこれを勤労奉仕に代わるものとは認めず、改めて勤労奉仕を受けさせられることとなった。しかし、[[1941年]][[7月]]、当局は、女子青年に対してさらに半年間の'''戦時協力奉仕'''を義務付けたために、この年の[[8月]]に勤労奉仕を終える予定だったゾフィーは改めて同年[[10月]]からブルムベルクの託児所において保母を務め、[[1942年]][[3月]]にウルムへ戻り、同年[[5月]]に生物学と哲学を学ぶために[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]へ入学した。
 
ミュンヘン大学に入学した[[1942年]][[8月]]、父ローベルトが、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が戦争をやめない場合2年後ロシア軍がベルリンに侵攻する、と同僚の女性職員に発言したためゲシュタポに逮捕され、特別法廷によって禁固4ヶ月の判決を受けた。そのため、ゾフィーは休暇中の8月に軍需工場で2ヶ月間動員させられることとなった。
 
== 白バラ抵抗運動 ==
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=== ミュンヘン大学でのビラまき ===
[[1943年]][[2月18日]]、ゾフィーは兄のハンスとともに、ミュンヘン大学において、白バラ抵抗運動のメンバーが起草した6番目の抵抗ビラを講義室の前などにまとめて置き、最後に残ったビラを3階からホール吹き抜けにばら撒いたところを大学の職員に発見され、ハンスと共に拘束されて、ゲシュタポに渡された。尋問において、ゾフィーもハンスもビラがあったことを知らずに落としてしまったと否定していた。しかし、ハンスの住居からハンスが所有していたビラの草案とクリストフ・プロープストの数通の手紙、8ペニヒの切手数百枚が見つかり、若い男が住居の近くの郵便局で大量の切手を買ったと報告もあった。このため、兄妹はクリストフ・プロープストから嫌疑をそらそうと試みたが、ビラの作成はハンスとプロープストの2人が行ったものであるとしてプロープストも逮捕されてしまった。
 
=== 民族裁判所での裁判と処刑 ===
逮捕の4日後の[[2月22日]]、民族裁判所長官[[ローラント・フライスラー]]は起訴されたゾフィー、ハンス、クリストフ・プロープストを感情的に怒号しながら非難する口調で尋問をし、戦時にビラをまくことで、軍需のサボタージュと国家社会主義体制の破壊と[[アドルフ・ヒトラー]]への誹謗中傷を行い、利敵行為を行い、ドイツの防衛力を破壊しようと試みたとして死刑判決を下した。その際に弁護人は被告の3人を弁護するどころか恥ずべき行為をしたとして非難までした。しかし、3人とも自分たちの行為は多くのドイツ人が内心では支持しているのだとして、堂々とした口調で反論をした。
 
[[Image:Grab Sophie und Hans Scholl Christoph Probst-1.jpg|thumb|左からハンス、'''ゾフィー'''、プローブストの墓(ミュンヘン)]]
判決が下されたその日の夕方5時、ミュンヘン・シュターデルハイム執行刑務所においてゾフィーはハンス、クリストフ・プロープストと共に[[ギロチン|斬首]]による死刑の執行を受け、21歳の短い生涯を閉じた。
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ゾフィーらがばら撒いた抵抗ビラはその後、スカンジナビア経由でイギリスに渡り、連合国がドイツに降伏を呼びかける際のビラとして使われた。
 
ゾフィーには4歳年上の婚約者がいた。1937年にダンスパーティーで知り合ったフリッツ・ハルトナーゲルで、文通を続けて婚約した。大戦勃発と同時にフリッツは徴兵され、[[スターリングラード攻防戦|スターリングラードの戦い]]に従軍。ゾフィーがビラまきをした当時は[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]のドイツ軍が壊滅した直後で生死不明だったが、実際は[[リヴィウ|レンベルク]]の野戦病院に入院しており、ゾフィー処刑の報せもそこで受けた。フリッツは戦争を生き延び、復員後はゾフィーの姉エリザベートと結婚。ミュンヘン大学を卒業して裁判官を務め、また平和運動に参加、2001年に84歳で死去した。2003年、ゾフィーの死後60年に合わせ、二人の交わした手紙が公開された。
 
==関連書籍==