「ヴィルヘルム・アダム (政治家)」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== ワイマール共和国以前 ===
[[ハーナウ]]にて[[農夫]]の息子として生まれ。高校卒業後の[[1908年]]から[[1913年]]まで[[シュヒターン]]の教員学校に通う。[[1913年]][[10月1日]]から、1年間の兵役を果たすべく[[プロイセン陸軍]]に入隊し、'''第88ナッサウ第2歩兵連隊'''(2. Nassauisches Infanterie-Regiment Nr. 88)第5中隊に所属する[[1914年]][[8月8日]]彼は伍長(Gefreiter)として前線に送られるが、[[1914年]][[9月16日]]に負傷して[[デュッセルドルフ]]の病院に送られた。10日後には連隊の補充大隊(Ersatz-Bataillon)に配属され、[[1915年]][[4月1日]]に曹長(Feldwebel)へ昇進。[[1915年]]4月から5月にかけて、ロックシュテッター駐屯地(Lockstedter Lager)における士官候補生の教育過程に参加し、[[5月22日]]に中尉(Leutnant)に昇進する。[[6月14日]]、第16軍団(XVI Armeekorps)の第1新兵訓練所(1. Rekruten-Depot)にて小隊長に任命され、[[1915年]][[10月5日]]'''第30ライン第4歩兵「ヴェルデル伯」連隊'''(Infanterie-Regiment „Graf Werder“ (4. Rheinisches) Nr. 30)の第5中隊に配属された。[[1916年]]7月頃、病気を理由に[[ゲルマースハイム]]の野戦病院へ入院し、退院後は第88ナッサウ第2歩兵連隊の第2補充大隊に送られた。[[1916年]][[9月28日]]彼は'''第424歩兵連隊'''(Infanterie-Regiments 424)で機関銃中隊の中隊長となっていた[[10月28日]]からは'''第70民兵旅団'''(Landwehr-Infanterie-Brigade 70)の装備科士官(Ordonnanzoffizier)を務める。戦後しばらくした[[1919年]][[1月31日]]彼は中尉の階級で軍を退役した。
 
=== ワイマール共和国 ===
[[1919年]]から[[1929年]]までの間、アダムは専門知識を持つ元軍人として[[ヘッセン州]][[ランゲンゼルボルト]]の陸軍技術学校(Fachschule des Heeres)で講師を務め、[[1929年]]から[[1934年]]までは[[テューリンゲン州]][[ワイマール]]の第2陸軍技術学校(Heeresfachschule II)で講師を務めた。これに並行し、アダムは[[1922年]]から[[1924年]]にかけて[[フランクフルト大学]]で学び、[[1927年]]には高校教員の資格を取っている。彼はまた、[[1919年]]以来'''ランゲンゼルボルト軍人協会'''(Militärvereins Langenselbold)の一員で、1920年には'''ドイツ青年騎士団'''(Jungdeutschen Ordens)の指導者となっていた。[[1923年]]にアダムは[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP)に入党し、[[ミュンヘン一揆]]にも参加した。しかし[[1926年]]には脱党して[[ドイツ人民党]](DVP)に入党、[[1929年]]まで党員であり続けた。
 
=== ナチス・ドイツ ===
[[1933年]]、アダムは[[鉄兜団、前線兵士同盟|鉄兜団]]に入隊し、[[1934年]]に[[突撃隊]](SA)に統合された後には'''SA第1予備隊'''(SA-Reserve I)に配属された。第1予備隊は元鉄兜団団員で構成されており、その後アダムは[[親衛隊曹長|突撃隊曹長]](SA-Oberscharführers)の階級を得て、さらに[[血の勲章|1923年11月9日名誉章]]を授与された。その後、アダムはワイマールの第94連隊参謀(Stab der Standarte 94)としてイデオロギー教育部(Referat für weltanschauliche Schulung)に勤務した。[[1934年]]、アダムは大尉として陸軍に復帰し、[[1937年]]に陸軍学校を卒業して少佐となる。[[1939年]]、アダム'''デーベリッツ歩兵学校'''(Infanterieschule Döberitz)で教官を務め、後にのちドレスデンの軍学校(Kriegsschule)に移動した。
 
=== 第二次世界大戦 ===
[[1939年]]、彼はから第23軍団(XXIII. Armeekorps)の副官(Adjutant)となり、[[1941年]]には[[ヴァルター・フォン・ライヒェナウ]]将軍が率いる第6軍(6. Armee)の副官となる。第6軍司令官はのちに[[フリードリヒ・パウルス]]将軍に交代した。[[1942年]][[12月17日]]、彼は戦闘団団長(Kampfgruppenführer)としての功績を讃えられ、[[騎士鉄十字章]]を授与された。[[1943年]][[1月31日]]、[[スターリングラード攻防|スターリングラード]]にて[[赤軍|ソ連軍]]に投降する。捕虜となった彼は[[クラスノゴルスク]]にて'''中央反ファシズム学校'''(Zentrale Antifa-Schule)に送られ、その後[[ドイツ将校同盟]]のメンバーとなった。ナチスドイツ当局からは欠席裁判で彼に死刑を宣告していされに至った
 
=== 戦後 ===
[[File:Dresden Heidefriedhof Adam.JPG|thumb|upright|[[ドレスデン]]・ハイデフリートホーフにあるアダムの墓地]]
[[1948年]]に帰国後、'''[[ドイツ国家民主党 (東ドイツ)|ドイツ国家民主党]]'''(NDPD)の創設に関与した。[[1948年]]から[[1949年]]にかけて、彼は[[ザクセン州]]政府の顧問を務めていた。[[1950年]]から[[1952年]]までザクセン州財務相を務め、[[1949年]]から[[1963年]]まで[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]議員を務めた。のちに愛国功労勲章銀章(Vaterländischen Verdienstorden in Silber)を受章している。
 
=== 兵営人民警察と国家人民軍 ===
[[1952年]][[9月1日]]、彼は[[兵営人民警察]]の大佐に任命され、経理教育監査部長(Abteilung Inspektion für die Verwaltungslehranstalten)となる。さらに[[1953年]]から[[1956年]]まで、兵営人民警察及び[[国家人民軍]]の高級士官学校(Hochschule für Offiziere)で司令官を務めた。[[1957年]][[2月15日]]以降、[[ドイツ社会主義統一党]]政治局の決定に基づき、1950年代後半を通して旧国防軍軍人は退役を余儀なくされていった<ref>Hans Ehlert, Armin Wagner: ''Genosse General! Die Militärelite der DDR in biografischen Skizzen'', Ch Links Verlag, Berlin, 2003</ref>。[[1958年]]にはアダム自身も退役させられる。彼は'''退役将校作業部会'''(Arbeitsgemeinschaft ehemaliger Offiziere)の一員として活動を続けた。[[1968年]]には労働旗勲章(Banner der Arbeit)が授与され、[[1977年]][[10月7日]]にはドイツ民主共和国28周年を記念して少将の称号が送られた。[[1978年]]に死去し、[[ドレスデン]]のハイデフリートホーフに埋葬された。
 
== 受章 ==
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* [[:de:Bernd-Rainer Barth|Bernd-Rainer Barth]], [[:de:Helmut Müller-Enbergs|Helmut Müller-Enbergs]]:[http://stiftung-aufarbeitung.de/wer-war-wer-in-der-ddr-%2363%3B-1424.html?ID=11 Adam, Wilhelm]''. In: ''[[:de:Wer war wer in der DDR?|Wer war wer in der DDR?]]'' 5. Ausgabe. Ch. Links Verlag, Berlin 2010, ISBN 978-3-86153-561-4
 
== 脚注出典 ==
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<references />
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== 外部リンク ==
* {{DNB-Portal|118500554|NAME=Wilhelm Adam}}
 
 
 
 
 
 
 
 
 
{{DEFAULTSORT:あたむ ういるへるむ}}