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[[File:Pen Dehuai And Malinovsky.jpg|thumb|[[彭徳懐]](左)と握手を交わすマリノフスキー、1957年モスクワ]]
[[File:Maresc. malinovskij a Budapest.jpg|thumb|[[ブダペスト包囲戦]]に参加するマリノフスキー(右)]]
'''ロディオン・ヤコヴレヴィチ・マリノフスキー'''([[ロシア語]]: '''{{lang|ru|Родион Яковлевич Малиновский}}'''、[[ラテン文字]]転写の例:''Rodion Jakovlevič Malinovskij'', [[1898年]][[11月23日]] - [[1967年]][[3月31日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[軍人]]。最終階級は[[ソ連邦元帥]]。陸軍総司令官、[[ソビエト連邦の国防相|国防相]]などを歴任した。
 
== 経歴 ==
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=== 独ソ戦 ===
[[第二次世界大戦]]中の1941年、[[オデッサ軍管区]]の第9独立軍第48軍団長に任命される。8月には[[南部戦線 (ソ連軍)|南部戦線]]で第6軍の、12月から第12軍の指揮を執った。1942年には第2親衛軍を指揮し、[[スターリングラード攻防戦|スターリングラードの戦い]]で[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]を破った。この戦いが終結したのちの1943年2月から[[上級大将]]に昇進して南部戦線司令官となり、さらに戦局の推移に伴い[[南西戦線 (ソ連軍)|南西戦線]]、[[第2ウクライナ戦線 (ソ連軍)|第2ウクライナ戦線]]、[[第3ウクライナ戦線 (ソ連軍)|第3ウクライナ戦線]]を指揮し、[[ルーマニア]]、[[ハンガリー]]、[[スロバキア]]への突破に成功した。1944年9月にソ連邦元帥に列せられ、ルーマニア軍の降伏を受け入れた。1945年4月、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]のルーマニア管理委員会委員長。
 
=== 戦後 ===