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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[1882年]]、[[ブラウンシュヴァイク公国]][[ハルツ山地]]ヘルムシェローデ([[:de:Helmscherode]]、現在は[[バート・ガンダースハイム]]に併合されている)にまれる<ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/KeitelWilhelm/index.html LeMO]</ref><ref name="クノップ104">[[#クノップ|クノップ、p.104]]</ref><ref name="ゴールデンソーン56">[[#ゴールデンソーン|ゴールデンソーン、p.56]]</ref>。父は小規模な農場を所持していた地主カール・カイテル(Carl Keitel)。母はその妻アポロニア(Apollonia)(旧姓ヴィゼーリンク(Vissering))<ref name="LeMO"/>。
 
弟に[[ボーデヴィン・カイテル]]([[:de:Bodewin Keitel]])がいる。弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる。
 
少年時代のカイテルは家族から離れて[[ゲッティンゲン]]の[[ギムナジウム]]に学んだ。
 
=== ドイツ帝国軍時代 ===
同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった<ref name="クノップ109">[[#クノップ|クノップ、p.109]]</ref>。士官学校を経ずして<ref name="クノップ109">クノップ、109頁</ref><ref name="ゴールデンソーン53">[[#ゴールデンソーン|ゴールデンソーン、p.53]]</ref>、1901年3月に[[ヴォルフェンビュッテル]]([[:de:Wolfenbüttel]])の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した<ref name="LeMO"/><ref name="Axis">[http://www.geocities.com/~orion47/ Axis Biographical Research]の"Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel"の項目</ref>。
 
1902年8月に少尉(Leutnant)に昇進するとともに<ref name="Axis"/>、公国の首都[[ブラウンシュヴァイク]]の勤務となる<ref name="クノップ109"/>。同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。非常にまじめ真面目で「[[ギャンブル]]もせず、浮いた噂の一つもない」と言われていた<ref name="クノップ109"/>。
 
野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/>。1909年に[[ハノーファー]]の資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚<ref name="LeMO"/><ref name="クノップ110">[[#クノップ|クノップ、p.110]]</ref>。カイテル夫妻は6児をもうけた。
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=== ナチス政権下時代 ===
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-H12262, Nürnberg, Reichsparteitag, Tag der Wehrmacht.jpg|right|thumb|250px|[[1938年]][[9月12日]]、ナチ党の[[ニュルンベルク党大会]]に出席したドイツ国防軍幹部達。<br><small>左から[[エアハルト・ミルヒ]]空軍大将、国防軍最高司令部総長カイテル砲兵大将(間にいる人物)、陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]砲兵大将、海軍総司令官[[エーリヒ・レーダー]]海軍上級大将、第8軍団長[[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]騎兵大将。</small>]]
カイテルは[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの[[突撃隊]](SA)をいまいましくさえ思い、[[アドルフ・ヒトラー]]を「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた<ref>[[#クノップ|クノップ、p.118-119]]</ref>。
 
しかし1933年1月30日に自由選挙の末にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月には[[バート・ライヘンヒル]]で開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった<ref name="クノップ119">[[#クノップ|クノップ、p.119]]</ref>。ただしナチ党には最後まで入党していない。1933年10月に編成部長の職を離職し、1934年4月に[[少将]]に昇進するとともに[[ポツダム]]の師団の師団長代理となった<ref name="クノップ120">[[#クノップ|クノップ、p.120]]</ref>。1934年10月には[[ブレーメン]]に派遣され第22師団の編成にあたった<ref name="Axis"/>。
 
ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年[[1935年]][[10月1日]]には[[国防軍部]] (Wehrmachtamt)の部長に就任した<ref name="Axis"/>。国防軍部は国土防衛・対外防諜・軍需経済の各課を保有する国防省の最重要部署であった。カイテルのメモによるとこの人事は陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]のブロンベルクへの推挙によるという<ref name="ゲルリッツ132">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.132]]</ref>。以降ヒトラーとブロンベルクの下で急速に昇進する。1936年1月には[[中将]]に昇進し、1937年には砲兵[[大将]]となった。ブロンベルクとカイテルは[[ゲシュタポ]]とも連携して「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめた<ref name="クノップ125">[[#クノップ|クノップ、p.125]]</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H13192, Adolf Hitler im Sudetenland.jpg|thumb|left|250px|[[1938年]][[10月3日]]、[[ズデーテン併合]]の道中、昼食を取るナチ党首脳と国防軍将軍たち。<br><small>テーブル奥側の右からカイテル大将、[[ズデーテン・ドイツ人党]]党首[[コンラート・ヘンライン]]、総統[[アドルフ・ヒトラー]]、第10軍司令官[[ヴァルター・フォン・ライヒェナウ]]大将、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]、第16装甲軍団長[[ハインツ・グデーリアン]]中将。</small>]]
1938年1月、カイテルの息子[[カール・ハインツ・カイテル]]とブロンベルクの娘ドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]を解任した([[ブロンベルク罷免事件]])。さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。このために[[国防軍最高司令部]](OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であった<ref name="ゲルリッツ169">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.169]]</ref><ref name="クノップ133">[[#クノップ|クノップ、p.133]]</ref>。また併せて国防軍最高司令部の陸軍への支配力を高める意味からカイテルの弟であるボーデウィン・カイテル少将が陸軍人事部長に任命されている<ref name="ゲルリッツ168">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.168]]</ref>。
 
1938年11月には[[上級大将]]に昇進している。ドイツ国防軍に[[国家社会主義]]思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、[[1939年]][[1月27日]]の旧ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の誕生日記念式典にも軍部は一切参加してはならないと厳命した<ref name="クノップ138">[[#クノップ|クノップ、p.138]]</ref>。1939年4月にはナチ党員でないにもかかわらず、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]]の際の進軍の褒賞として[[黄金ナチ党員バッジ]]を授与された<ref>[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.42]]</ref>。
 
カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたり<ref name="クノップ137">[[#クノップ|クノップ、p.137]]</ref><ref name="パーシコ上126">[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.126]]</ref><ref group="注釈">フランス語で下僕を意味するlaquaisを変じ、laquai-tel即ち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄されたとする説もある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』片岡啓治 訳、[[講談社]]、2000年、ISBN 4-06-159433-8、p.249)。</ref>、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた<ref name="パーシコ上126"/>。ヒトラーは後年カイテルについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防軍の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたという<ref name="パーシコ下9">[[#パーシコ下|パーシコ、下巻p.9]]</ref>。
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=== 第二次世界大戦 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1985-0930-502, General Keitel in Lodz.jpg|right|thumb|250px|1939年9月、占領したポーランド・[[ウッチ]]を走るカイテル上級大将の自動車。]]
[[1939年]][[9月1日]]にドイツ国防軍による[[ポーランド侵攻]]が開始され、[[イギリス]]と[[フランス]]がドイツに宣戦を布告し、[[第二次世界大戦]]が勃発した。ポーランド侵攻は主に陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]の陸軍総司令部が中心となって作戦指導しており、カイテルの国防軍最高司令部の役割は二次的な物だった。しかしポーランド侵攻後、カイテルのもとには[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]の[[アインザッツグルッペン]]の虐殺に関する報告書が積み上がった。[[国防軍情報部]](アプヴェーア)部長[[ヴィルヘルム・カナリス]]提督もカイテルにアインザッツグルッペンに関する苦情を申し立てたが、カイテルは「国防軍がこうした虐殺に関与しなくていいようにするためには親衛隊とゲシュタポが隣にいる事を許可するしかない」と回答したという<ref>[[#クノップ|クノップ、p.138-139]]</ref>。
 
ヒトラーは1939年冬のうちにも対フランス戦を開始するつもりだったが、カイテルは陸軍総司令官ブラウヒッチュの兵に休息を取らせる必要があるという意見を容れて、1939年冬の軍事行動に反対し、ヒトラーと激しい口論をした。カイテルはヒトラーの罵倒に激怒して前線の部隊の指揮に回してほしいと求めたが、ヒトラーの説得で思いとどまったという。結局後になってヒトラーは1939年冬のフランス攻撃を諦めた<ref name="クノップ141">[[#クノップ|クノップ、p.141]]</ref>。
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カイテルはイギリスを倒す前にソ連と戦争をすることには反対の立場であった。外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と組んでヒトラーに[[ヨシフ・スターリン]]と協議の場を持つことを提案している。しかしヒトラーに相手にされることはなかった<ref name="クノップ146">[[#クノップ|クノップ、p.146]]</ref>。それにもかかわらず1941年末にモスクワ攻略が失敗した際にはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責を受け、カイテルが自殺しそうになったとアルフレート・ヨードルは後に証言している<ref name="クノップ151">[[#クノップ|クノップ、p.151]]</ref>。
 
[[1941年]]12月7日には『[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]の布告』に副署した。この布告ではドイツ占領軍当局に反抗する者は軍法会議による判決が下されなかったならば、親族への通知なしにドイツの[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]へと移送されることになった。この法令によってフランスだけでも7000人を超える[[レジスタンス運動|レジスタンス]]と目された人物が痕跡も残さず姿を消した<ref name="クノップ153">[[#クノップ|クノップ、p.153]]</ref>。
 
また1941年10月にはゲリラに対処するための「報復に関する命令」、[[ソ連]]の[[政治将校]]に対処するための「[[コミッサール指令|政治委員に関する命令]]」([[:en:Commissar Order|en]])に署名し、1942年10月18日には破壊工作員などに対処するための「[[コマンドに関する指令]]」([[:en:Commando_Order|en]])に署名した<ref name="パーシコ上126">[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.126]]</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1990-044-13, Werner Mölders bei Adolf Hitler.jpg|left|thumb|250px|1941年7月25日。ヒトラー総統(中央)、カイテル元帥(ヒトラーの左後方)、空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]国家元帥(右端)、空軍エースパイロット[[ヴェルナー・メルダース|メルダース]]大佐(左端)]]
[[スターリングラード攻防戦|スターリングラードの戦い]]以降、ドイツの戦況が悪化してくると、ヒトラーが死守命令を連発するようになる。撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」([[フランツ・ハルダー]])をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。ドイツの戦況がさらに悪化してもカイテルの主人への追従ぶりは変わらなかった。むしろさらに追従を強めていった。国防軍最高司令部の会議で部下の将校がヒトラーの死守命令に代わる新たな戦術を考えることを提案しただけでカイテルは「敗北主義者がこの場にいる資格はない」と絶叫して黙らせた。1943年1月にはナチ党官房長[[マルティン・ボルマン]]と首相官房長官[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]とともに総統へ取り次ぐかどうかを決めるための機関として「三人委員会(Dreimännerkollegiums)」を創設している。
 
[[1944年]]7月20日の[[7月20日事件|ヒトラー暗殺未遂事件]]の際には爆発現場に居合わせた。カイテルが真っ先に「我が総統ご無事ですか」と叫びながらヒトラーに駆け寄り、ヒトラーを抱きかかえて外へ連れ出している<ref>[[#パーシコ下|パーシコ、下巻p.127]]</ref>。その後、陰謀に関与した軍人は[[軍法会議]]ではなく、[[反逆罪]]を裁く[[ローラント・フライスラー]]の[[人民法廷]]にかけるために、先ず、国防軍の[[名誉法廷]] ([[:de:Ehrenhof (Wehrmacht)|Ehrenhof]]) にかけられることとなった。[[エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン]]元帥他55人の軍人の軍籍が剥奪された。[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]、[[ハインツ・グデーリアン]]他と並んでカイテルも名誉法廷の構成員の一人として同僚の名誉剥奪に関与した。また7月24日にはカイテルは国防軍の全軍人に対して敬礼はすべて手を掲げるナチス式敬礼にするよう命じている。1945年1月末には「将兵の行動に関する規定」に署名し、撤退命令を出す将校は「敗北主義者」として即決裁判で死刑、必要ならばその場で即座に殺害してよいこととした。脱走兵の親族に[[連帯責任]]を取らせる命令も出した。
 
[[File:Wilhelm Keitel Kapitulation.jpg|right|thumb|250px|ソ連軍に対する降伏文書に署名するカイテル]]
{{see also|欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)}}
[[1945年]]5月にヒトラーの自殺を知ると、[[ヒトラー内閣#参考:ヒトラーの遺書による内閣|ヒトラーの遺言]]により大統領兼国防軍総司令官となった[[カール・デーニッツ]]の[[フレンスブルク政府]]の下に参じた。5月7日、[[アルフレート・ヨードル]]大将が[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]の司令部において降伏文書に署名を行った。[[5月8日]]、[[ベルリン]]市内の[[カールスホルスト]]([[:de:Karlshorst|Karlshorst]]) の[[工兵]]学校において、降伏文書の批准措置を行った。カイテル元帥は国防軍最高司令部総長として降伏文書批准のための署名を行った(海軍代表[[ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク]]提督 、空軍代表[[ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ]]上級大将も[[副署]]を行っている)。現在、カイテルが降伏文書の署名を行った建物は{{仮リンク|ベルリン=カールスホルスト・ドイツ=ロシア博物館|de|Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst}} になり、独ソ戦、[[ベルリンの戦い|ベルリン攻防戦]]や降伏式の資料が展示されている。 
 
カイテルは他のフレンスブルク政府の面々より一足早く、5月13日にアメリカ軍の捕虜となっている。大物捕虜が集められていた[[バート・モンドルフ]]のホテルを使って作られた収容所に送られた。同じくここに収容された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[カール・デーニッツ]]、[[アルフレート・ヨードル]]らとともに[[ニュルンベルク]]に移送された。この移送の際にバート・モンドルフ、ついでニュルンベルクでも刑務所長を務める[[アメリカ軍]][[大佐]][[バートン・アンドラス]]([[:en:Burton C. Andrus]])によって起立させられ、さらに「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告されて階級章がはぎ取られた<ref name="パーシコ上75">[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.75]]</ref>。
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=== 処刑 ===
[[File:Dead wilhelmkeitel.jpg|thumb|刑死後のカイテルの遺体]]
カイテル自身やフランス代表により銃殺による死刑が主張されたものの、絞首刑判決に変更はなかった。[[1946年]][[10月16日]]午前1時10分から自殺した[[ヘルマン・ゲーリング]]を除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カイテルは、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]に次いで二番目に処刑された。
 
カイテルは軍人らしく誇り高い態度で絞首台に上った<ref name="マーザー392">[[#マーザー|マーザー、p.392]]</ref>。最後の言葉は「どうかドイツ国民に憐みを賜わらんことを。二百万人以上の兵士が祖国のために死んでいきました。今、私は息子たちの後を追います。全てに勝るドイツ!」<ref name="クノップ167">[[#クノップ|クノップ、p.167]]</ref><ref name="パーシコ下309">[[#パーシコ下|パーシコ、下巻p.309]]</ref><ref name="マーザー392"/>。