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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[1882年]]、[[ブラウンシュヴァイク公国]][[ハルツ山地]]ヘルムシェローデ([[:de:Helmscherode]]、現在は[[バート・ガンダースハイム]]に併合されている)に出生
弟に[[ボーデヴィン・カイテル]]([[:de:Bodewin Keitel]])がいる。弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる。
少年時代
=== ドイツ帝国軍時代 ===
同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった<ref name="クノップ109">[[#クノップ|クノップ、p.109]]</ref>。士官学校を経ずして<ref name="クノップ109">クノップ、109頁</ref><ref name="ゴールデンソーン53">[[#ゴールデンソーン|ゴールデンソーン、p.53]]</ref>、1901年3月に[[ヴォルフェンビュッテル]]([[:de:Wolfenbüttel]])の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した<ref name="LeMO"/><ref name="Axis">[http://www.geocities.com/~orion47/ Axis Biographical Research]の"Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel"の項目</ref>。
1902年8月に少尉(Leutnant)に昇進するとともに<ref name="Axis"/>、公国の首都[[ブラウンシュヴァイク]]の勤務となる<ref name="クノップ109"/>。同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。非常に
野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/>。1909年に[[ハノーファー]]の資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚<ref name="LeMO"/><ref name="クノップ110">[[#クノップ|クノップ、p.110]]</ref>。カイテル夫妻は6児をもうけた。
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=== ナチス政権下時代 ===
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-H12262, Nürnberg, Reichsparteitag, Tag der Wehrmacht.jpg|right|thumb|250px|
カイテルは[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの[[突撃隊]](SA)をいまいましくさえ思い、[[アドルフ・ヒトラー]]を「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた<ref>[[#クノップ|クノップ、p.118-119]]</ref>。
しかし1933年1月30日に自由選挙の末にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月には[[バート・ライヘンヒル]]で開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった<ref name="クノップ119">[[#クノップ|クノップ、p.119]]</ref>。ただしナチ党には最後まで入党していない。1933年10月に編成部長の職を離職し、1934年4月に[[少将]]に昇進するとともに[[ポツダム]]の師団の師団長代理となった<ref name="クノップ120">[[#クノップ|クノップ、p.120]]</ref>。1934年10月には[[ブレーメン]]に派遣され第22師団の編成にあたった<ref name="Axis"/>。
ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H13192, Adolf Hitler im Sudetenland.jpg|thumb|left|250px|
1938年1月、カイテルの息子[[カール・ハインツ・カイテル]]とブロンベルクの娘ドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]を解任した([[ブロンベルク罷免事件]])。さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。このために[[国防軍最高司令部]](OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であった<ref name="ゲルリッツ169">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.169]]</ref><ref name="クノップ133">[[#クノップ|クノップ、p.133]]</ref>。また併せて国防軍最高司令部の陸軍への支配力を高める意味からカイテルの弟であるボーデウィン・カイテル少将が陸軍人事部長に任命されている<ref name="ゲルリッツ168">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.168]]</ref>。
1938年11月には[[上級大将]]に昇進している。ドイツ国防軍に[[国家社会主義]]思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、
カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたり<ref name="クノップ137">[[#クノップ|クノップ、p.137]]</ref><ref name="パーシコ上126">[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.126]]</ref><ref group="注釈">フランス語で下僕を意味するlaquaisを変じ、laquai-tel即ち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄されたとする説もある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』片岡啓治 訳、[[講談社]]、2000年、ISBN 4-06-159433-8、p.249)。</ref>、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた<ref name="パーシコ上126"/>。ヒトラーは後年カイテルについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防軍の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたという<ref name="パーシコ下9">[[#パーシコ下|パーシコ、下巻p.9]]</ref>。
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=== 第二次世界大戦 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1985-0930-502, General Keitel in Lodz.jpg|right|thumb|250px|1939年9月、占領したポーランド・[[ウッチ]]を走るカイテル上級大将の自動車。]]
ヒトラーは1939年冬のうちにも対フランス戦を開始するつもりだったが、カイテルは陸軍総司令官ブラウヒッチュの兵に休息を取らせる必要があるという意見を容れて、1939年冬の軍事行動に反対し、ヒトラーと激しい口論をした。カイテルはヒトラーの罵倒に激怒して前線の部隊の指揮に回してほしいと求めたが、ヒトラーの説得で思いとどまったという。結局後になってヒトラーは1939年冬のフランス攻撃を諦めた<ref name="クノップ141">[[#クノップ|クノップ、p.141]]</ref>。
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カイテルはイギリスを倒す前にソ連と戦争をすることには反対の立場であった。外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と組んでヒトラーに[[ヨシフ・スターリン]]と協議の場を持つことを提案している。しかしヒトラーに相手にされることはなかった<ref name="クノップ146">[[#クノップ|クノップ、p.146]]</ref>。それにもかかわらず1941年末にモスクワ攻略が失敗した際にはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責を受け、カイテルが自殺しそうになったとアルフレート・ヨードルは後に証言している<ref name="クノップ151">[[#クノップ|クノップ、p.151]]</ref>。
また1941年10月にはゲリラに対処するための「報復に関する命令」、[[ソ連]]の[[政治将校]]に対処するための「[[コミッサール指令|政治委員に関する命令]]」([[:en:Commissar Order|en]])に署名し、1942年10月18日には破壊工作員などに対処するための「[[コマンドに関する指令]]」([[:en:Commando_Order|en]])に署名した<ref name="パーシコ上126">[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.126]]</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1990-044-13, Werner Mölders bei Adolf Hitler.jpg|left|thumb|250px|1941年7月25日。ヒトラー総統(中央)、カイテル元帥(ヒトラーの左後方)、空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]国家元帥(右端)、空軍エースパイロット[[ヴェルナー・メルダース|メルダース]]大佐(左端)]]
[[スターリングラード攻防戦|スターリングラードの戦い]]以降、ドイツの戦況が悪化してくると、ヒトラーが死守命令を連発するようになる。撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」([[フランツ・ハルダー]])をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。ドイツの戦況がさらに悪化してもカイテルの主人への追従ぶりは変わらなかった。むしろさらに追従を強めていった。国防軍最高司令部の会議で部下の将校がヒトラーの死守命令に代わる新たな戦術を考えることを提案しただけでカイテルは「敗北主義者がこの場にいる資格はない」と絶叫して黙らせた。1943年1月にはナチ党官房長[[マルティン・ボルマン]]と首相官房長官[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]とともに総統へ取り次ぐかどうかを決めるための機関として「三人委員会(Dreimännerkollegiums)」を創設している。
[[File:Wilhelm Keitel Kapitulation.jpg|right|thumb|250px|ソ連軍に対する降伏文書に署名するカイテル]]
{{see also|欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)}}
カイテルは他のフレンスブルク政府の面々より一足早く、5月13日にアメリカ軍の捕虜となっている。大物捕虜が集められていた[[バート・モンドルフ]]のホテルを使って作られた収容所に送られた。同じくここに収容された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[カール・デーニッツ]]、[[アルフレート・ヨードル]]らとともに[[ニュルンベルク]]に移送された。この移送の際にバート・モンドルフ、ついでニュルンベルクでも刑務所長を務める[[アメリカ軍]][[大佐]][[バートン・アンドラス]]([[:en:Burton C. Andrus]])によって起立させられ、さらに「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告されて階級章がはぎ取られた<ref name="パーシコ上75">[[#パーシコ上|パーシコ、上巻p.75]]</ref>。
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=== 処刑 ===
[[File:Dead wilhelmkeitel.jpg|thumb|刑死後のカイテルの遺体]]
カイテル自身やフランス代表により銃殺による死刑が主張されたものの、絞首刑判決に変更はなかった。
カイテルは軍人らしく誇り高い態度で絞首台に上った<ref name="マーザー392">[[#マーザー|マーザー、p.392]]</ref>。最後の言葉は「どうかドイツ国民に憐みを賜わらんことを。二百万人以上の兵士が祖国のために死んでいきました。今、私は息子たちの後を追います。全てに勝るドイツ!」<ref name="クノップ167">[[#クノップ|クノップ、p.167]]</ref><ref name="パーシコ下309">[[#パーシコ下|パーシコ、下巻p.309]]</ref><ref name="マーザー392"/>。
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