「相馬愛蔵」の版間の差分

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1870年はまだ信濃国のため修正(廃藩置県はその1年後)
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== 来歴 ==
相馬愛蔵は明治3年(1870年)、[[信濃国]](翌1871年より長野県[[安曇郡]]白金村(現[[安曇野市]])の農家に生まれた。[[長野県松本深志高等学校|松本中学(旧制)]]を3年で退学し、[[東京専門学校]]([[早稲田大学]]の前身)に入学した。在京中に[[市ケ谷]]の[[牛込教会]]に通いはじめ、[[キリスト教]]に入信し、洗礼を受けた。[[内村鑑三]]らの教えを受け、[[田口卯吉]]([[歴史家]]、[[実業家]])と面識を得た。
 
明治23年(1890年)、東京専門学校卒業と同時に[[北海道]]に渡り、[[札幌農学校]]で[[養蚕]]学を修めて帰郷した。明治24年(1891年)、蚕種製造を始め、『蚕種製造論』を著し全国の養蚕家に注目された。
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*[[関東大震災]]で難民となった人々が新宿へと逃れてきたとき、便乗して高額な商品を売りつけるような真似をせず、安価なパンなどを連日販売して人々の飢えを満たした。『奉仕パン』『地震饅頭』などと大書して販売していた写真が現存している。
*[[昭和金融恐慌]]で[[取り付け騒ぎ]]が発生し、取引先の[[安田銀行]]に預金を確保しようとする人の列が出来た。その際、部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって群衆のパニックを収めた。
*[[1928年]]に外の実業界を視察するため[[欧州ヨーロッパ]]を訪問した際、「[[西洋人]]が日本に来ても日本の[[着物]]を着ずに自分たちの服装で堂々としているのに、日本人だけが着物を脱いで、似合わない洋服を着るのはおかしいうえ、格好が悪い」という考えから、常時着物で押し通し、大歓迎を受け、着物姿のほうが正装になり、厚遇を受けることを実証してみせた<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1099469/18 『中村屋店主相馬愛蔵氏欧洲視察談』相馬氏帰朝歓迎会編 1928 ]</ref>。また、西洋人は対等でないと思った人間に対してはすぐに[[奴隷]]のようにみなすことを指摘し、日本人[[留学生]]たちが気弱のため馬鹿にされていることを嘆き、彼らの高すぎる家賃を大家と交渉して値下げさせたりもした<ref>『中村屋店主相馬愛蔵氏欧洲視察談』p27</ref>。商交渉においても対等的な態度がいかに重要かを説いている。
 
== 著書 ==
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[[Category:日本の実業家]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:信濃国の人物]]
[[Category:長野県出身の人物]]
[[Category:1870年生]]