「第一次世界大戦」の版間の差分

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Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
ポール・ドゥメール暗殺事件を加筆。lk
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[[1928年]][[4月8日]]、形勢を立て直した蒋介石が北伐を再開(第2次北伐)。[[1928年]][[6月4日]]、[[張作霖爆殺事件]]が起こり、[[張学良]]が奉天軍閥を掌握。9月、張宗昌が下野すると、[[白軍|ロシア白軍]]は[[張学良]]の旗下に入った。[[1928年]]秋、マックス・バウアーを団長とする軍事顧問団が、[[黄埔軍官学校]]の軍事教練に着手し、[[1930年]]代の[[ハンス・フォン・ゼークト]]らによる[[中独合作]]の基礎を築いた。[[1928年]][[12月29日]]、張学良が蒋介石に降伏([[易幟]])し北伐は完了した。しかし蒋介石と国民党は張学良の持つ軍事力、とりわけ白軍の弱体化を狙いソ連にぶつけることになった。[[1929年]][[7月22日]]、国民党がソ連の[[東清鉄道|中東鉄路]]を接収したことをきっかけに、張学良が[[中ソ紛争]]に参戦させられた。張学良が敗北し{{仮リンク|ハバロフスク議定書|zh|伯力会议议定书|label=ハバロフスク議定書}}が調印された。その中には「中国官憲の手による白系ロシア人の武装解除と責任者の東三省からの追放。」という項があった。中ソ間の中東路交渉は、[[満州事変]]の勃発により中止となり、白軍の武装解除は実施されなかった。
 
[[1932年]][[5月6日]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]]の{{仮リンク|ポール・ドゥメール|fr|Paul Doumer|en|Paul Doumer}}([[急進党]])が[[白系ロシア人|白系ロシア]]移民{{仮リンク|パヴェル・ゴルギュロフ|fr|Paul Gorguloff|ru|Горгулов, Павел Тимофеевич|en|Paul Gorguloff}}に銃撃され、翌日死亡した({{仮リンク|ポール・ドゥメール暗殺事件|fr|Assassinat de Paul Doumer}})。裁判で暗殺の動機は、[[露仏同盟]]があるにもかかわらず、[[フランス第三共和政|フランス]]が[[白軍|ロシア白軍]]を支援しなかったからである、とゴルギュロフは証言した。[[9月14日]]にゴルギュロフはギロチンで処刑された。
 
[[1933年]][[4月12日]]、[[白軍|ロシア白軍]]の[[帰化軍]]が'''四・十二クーデーター'''を起こし、[[東トルキスタン共和国|第1次東トルキスタン共和国]]建国のきっかけを作った。[[1949年]]の{{仮リンク|伊吾の戦い|en|Battle of Yiwu}}でウイグル族の[[ユルバース・カーン]]が率いた元白軍は[[中国国民党|国民党]]側で参戦したが、ユルバース・カーンと共に[[台湾]]に避難した。