「住井すゑ」の版間の差分

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第二次世界大戦中は「農婦われ」「生産の歌」「日の丸少女」「佐久良東雄」「野の旗風」「難きにつく」など数々の軍部賛美の随筆や小説を書き、それらの作品で{{quotation|「戦争はありがたい。戦争は価値の標準を正しくしてくれる。そして、人間の心に等しく豊かさを与えてくれる」}}{{quotation|「戦争はありがたい。あり余る物によって却って心を貧しくされがちな人間の弱点を追い払って、真に豊かなものを与えようとしていてくれる」}}{{quotation|「やあ、おめでとう。マニラも陥ちたね、いや、愉快だ」}}{{quotation|「無敵皇軍。何がいけない? ははゝゝゝ無敵皇軍を不穏だなんて言った腰抜野郎、今こそ出て来い。神国日本は開闢以来無敵なんだ」}}などと書いている。そのとき住井は40歳を過ぎていた。この事実を櫻本富雄に指摘された住井は「ほほほ…何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」などと放言した<ref>[[朝日新聞社]]発行の『[[論座|Ronza]]』(1995年8月号)の特集「戦後50年 文筆者、出版・新聞の戦争責任」</ref>。
 
住井の説明によると、これらの翼賛的な文章は、思想犯としてたびたび検挙された夫の罰金を支払うために不本意ながら書いていたものであるという<ref name="前田">[https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3111/YMN004502.pdf 住井すゑの「少年倶楽部」に掲載された作品とラジオ放送された作品]</ref>。それに対し前田均は、戦時中の言論弾圧は罰金程度で済むほど甘いものだったのかと疑念を呈している<ref name="前田" />。前田はまた、「いずれにせよ、住井はそれ以前は、他の作家たちの戦争協力の例を挙げる一方で『書けないと突っ張ったのは私一人です』<ref>「時に聴く──反骨対談」目 (人文書院、1989年)p.121。「住井すゑ作品集」第8巻に収録。</ref>と言っていたが、それが『虚構』であることが櫻本にとって(ママ)明らかにされたわけである」とも評している<ref name="前田" />。
 
なお、[[ABCラジオ]]特別番組によると、住井は講演で過去の戦争協力の非を認める発言をしたという{{信頼性要検証|date=2015-01}}。