「小田切秀雄」の版間の差分

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== 経歴・人物 ==
東京出身。[[府立高等学校]]尋常科を経て高等科文科1年の時、[[1933年]]、学内の共産党グループのキャップとして[[治安維持法]]違反で警視庁目黒署に逮捕され、75日間勾留後に「軽はずみでした、もうしません」と宣誓書を書いて[[転向]]し、[[起訴猶予]]処分で釈放され、高等学校から諭旨退学処分を受ける。[[1935年]]、学生運動に参加せず学業に専念することを条件として[[法政大学]]予科に編入学を認められる。法政大学国文科卒業。
東京出身。左翼運動で旧制[[東京府立高等学校]]から放校された後、[[法政大学]]国文科卒業。
 
[[1941年]]、『万葉の伝統』で注目されたが、[[1943年]]応召、[[1944年]]に[[荒正人]]や[[佐々木基一]]との小研究会が原因で再び治安維持法違反に問われ逮捕されたが、[[結核]]により勾留停止となり釈放。戦後、雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の創刊に加わる。
 
戦時中は「少国民」に「キミガヨ」の「ありがたさ」を説いた翼賛的な作品を書いていたが<ref>今野敏彦・ 櫻本富雄『差別・戦争責任ノート』(八千代出版、1983年)</ref><ref>櫻本富雄『文化人たちの大東亜戦争──PK部隊が行く』(青木書店、1993年)p.153</ref>、[[1946年]]創刊の『文学時標』では「純粋なる文学の名において、かれら厚顔無恥な、文学の冒涜者たる戦争責任者を最後の一人にいたるまで、追求し(ママ)、弾劾し、読者とともにその文学上の生命を葬らんとするものである」<ref> 『文学時標』創刊号「発刊のことば」</ref>と謳い、毎号「文学検察」欄で戦争協力文学者を糾弾。このため、のちに「小田切は自分のことは棚に上げ、他の『戦争責任者』を追及しはじめた」と批判された<ref>[https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2426/JNK000201.pdf 前田均「住井すゑの戦争責任とその弁護者たち」]</ref>。
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