「1932年7月ドイツ国会選挙」の版間の差分

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プロイセン・クーデタを加筆。lk
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== 経緯 ==
1932年[[6月1日]]、[[保守]]派の[[フランツ・フォン・パーペン]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より国会に基づかない「大統領内閣」として首相に任命された。パーペン首相は国会の第2党を占めていた[[右翼]][[政党]]ナチ党の協力を得ようとしたが、ナチ党党首[[アドルフ・ヒトラー]]はパーペン首相へのいかなる協力も拒絶した。[[ドイツ社民党]]や[[ドイツ共産党]]のような[[左翼]]政党からの支持はもちろん期待できなかった。
 
結局、パーペン首相はナチ党に揺さぶりをかけようと6月4日にヒンデンブルク大統領に国会を解散してもらった。6月16日にはパーペン首相はヒンデンブルク大統領命令で[[突撃隊]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の禁止命令を解除し、ナチ党の懐柔をはかったが、ナチ党がパーペン首相支持に転じることはなかった。
 
[[7月20日]]にパーペン首相が[[プロイセン州]]の命令違反を理由に{{仮リンク|プロイセン・クーデタ|de|Preußenschlag|en|Preußenschlag}}({{lang|de|Preußenschlag}})を起こし、プロイセン州政府内の「ヴァイマル共和国派」「反ナチ派」「左翼」を根こそぎ一掃した。
7月31日に選挙がおこなわれ、ナチ党が社民党を抜いて第1党に大躍進した。しかし引き続きナチ党がパーペンを支持することはなく、9月12日にはパーペン内閣不信任案がナチ党の賛成の下に国会で可決されてしまい、再び国会が解散されることとなった。
 
7月31日に選挙がおこなわれ、ナチ党が社民党を抜いて第1党に大躍進した。しかし引き続きナチ党がパーペン首相を支持することはなく、9月12日にはの本会議でパーペン内閣不信任案がナチ党の賛成の下に国会で可決されてしまい、再び国会が解散されることとなった(→[[1932年11月ドイツ国会選挙]])
 
== 選挙結果 ==