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[[国立大学協会]]会長(第14代)、[[東京大学総長]](第24代)、[[理化学研究所]]理事長(第7代)、[[参議院議員]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]([[小渕内閣|第125代]])、[[科学技術庁長官]]([[小渕第1次改造内閣|第58代]])などを歴任した。
 
== 概要人物 ==
=== 物理学者として ===
[[原子核物理学]]の分野で国際的に知られ、原子核構造論などで多くの業績をあげた。代表的なものに有馬・堀江理論(配位混合の理論)、[[:en:Interacting boson model|相互作用するボゾン模型]]の提唱、クラスター模型への貢献など。
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=== 俳人として ===
1945年より作句。1946年に「[[俳人協会ホトトギス]]所属する伝統俳句の俳人初入選{{要出典範囲|東大に入学した1950年に「[[中村田男]]・[[加藤楸邨]]らの亡き後の日本を代表する|date=2014年2月}}俳人と」に入会て活躍。[[山口青邨]]に師事。「光堂より一筋の雪解水」「イエまた東大ホトトギより軽く鮟鱇を吊りさげる」会にも入会。1953年朱欒割りサド侯爵の忌を修す夏草同人。高橋沐石らと失ひしものをさがしに冬帽午線などの句があるを創刊海外詠も多い。『1990年「天為を創刊・主宰し、[[東大俳句会]]の指導も行う。2006年より12年まで[[蛇笏賞]]選者。
 
「光堂より一筋の雪解水」「イエスより軽く鮟鱇を吊りさげる」「朱欒割りサド侯爵の忌を修す」「失ひしものをさがしに冬帽子」などの句がある。第一句集『母国』(1972年)収録の初期の句は、モダニズムを超克する意識から、日常の中に超現実的なイメージを探し求める傾向があったが、第二句集『知命』(1982年)の頃は海外滞在・出張生活の経験から、神話や聖書・古代史などの知識を踏まえた優れた海外詠を多く作るようになり、第三句集『天為』(1987年)で伝統回帰の傾向を強めた。以降の句集に『耳順』『立志』『不稀』などがある。1987年、『天為』で第27回[[俳人協会賞]]受賞、2004年『不稀』で第7回[[加藤郁乎賞]]受賞。2005年12月22日には東大本郷校舎構内の三四郎池畔に山口青邨句碑と並んで建立された。<ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1329/no1329.pdf 東京大学 学内広報 2006年2月8日No.1329 P17「有馬朗人先生の句碑建立」]</ref>
 
夫人の[[有馬ひろこ]]<ref name=hiroko>『[[有馬ひろ子]]』と書くのは誤り。</ref>も俳人であり、1929年に東京に生まれ、深川正一郎に学び、[[山口青邨]]に師事。夫と共に「天為」を主宰している
 
=== その他 ===
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行政や政治などの、物理学と無縁のことをやり、物理学に専念しなかったことを後悔している。後悔の理由はノーベル賞をもらえていないことであるという(2005年10月24日(月)日経朝刊内コラム「私の苦笑い」)。
 
夫人の[[有馬ひろこ]]<ref name=hiroko>『[[有馬ひろ子]]』と書くのは誤り。</ref>も俳人であり、1929年に東京に生まれ、深川正一郎に学び、[[山口青邨]]に師事。夫と共に「天為」を主宰。
 
== 略歴 ==
* 1[[930年]]9月 [[大阪府]]住吉区に父・丈二、母・籌子(かずこ)の長男として生まれる。父は有馬石丈の俳号を持つ俳人であった。
* [[1948年]]4月 [[静岡県立浜松北高等学校]]入学
* [[1950年]]3月 [[武蔵高等学校 (旧制)|旧制武蔵高等学校]]卒業
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== 受賞歴 ==
* 1978年 [[仁科記念賞]]
* 1987年 [[フンボルト賞]]、[[俳人協会賞]](句集『天為』)
* 1990年 フランクリン・インスティテュート・ウエザリル・メダル(アメリカ)、[[ドイツ連邦共和国功労勲章]](大功労従事賞)
* 1993年 [[日本学士院賞]]、[[ボナー賞]](アメリカ物理学会)
* 1998年 [[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]
* 2002年 [[大英帝国勲章]](KBE)
* 2004年 [[文化功労者]]、[[旭日大綬章]]、[[加藤郁乎賞]](句集『不稀』)
* 2010年 [[文化勲章]]
 
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== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
*春陽堂俳句文庫 『有馬朗人』、1993年
 
== 関連項目 ==