「ヴァイマル共和政」の版間の差分

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=== ヴァイマル憲法成立 ===
[[ファイル:German losses after WWI.svg|thumb|right|200px|ヴェルサイユ条約によるドイツの割譲地域]]
1月19日、予定通り{{仮リンク|1919年ドイツ国民議会選挙|de|Wahl zur Deutschen Nationalversammlung|en|German federal election, 1919|label=国民議会選挙}}が行われた。共産党はボイコットしたものの、投票率は82.7%と高率であった。社会民主党・中央党・[[ドイツ民主党]]が多数を占め、連立政府を形成した。この連合は{{仮リンク|ヴァイマル連合|de|Weimarer Koalition}}と呼ばれる。2月6日から[[ヴァイマル]]で開催された国民議会が開催され、[[2月11日]]の{{仮リンク|1919年ドイツ大統領選挙|de|Reichspräsidentenwahl 1919|en|German presidential election, 1919|label=大統領選挙}}でエーベルト臨時大統領に選出され、シャイデマン首相になっ指名した。7月末には[[ヴァイマル憲法]] (WRV: Weimarer Reichsverfassung) が採択され、8月11日に公布された。この憲法において大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、[[基本的人権]]の尊重が定められた。これが法制史における人権概念の萌芽とされており、後に制定された日本国憲法にも影響を与えている。
 
一方で、連合国は[[パリ講和会議]]において講和条約を策定し、6月28日にドイツに提示し、調印させた。この[[ヴェルサイユ条約]]で、[[ラインラント]]への連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地と[[アルザス・ロレーヌ|エルザス・ロートリンゲン]]、[[シレジア|上シュレージエン]]などの割譲、[[ザール (国際連盟管理地域)|ザール地方の国際連盟による管理化]]、ダンツィヒ(現・[[グダニスク]])の[[ダンツィヒ自由都市|自由都市]]化などの領土削減が行われた。また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして[[戦争責任]]はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる[[戦争賠償|賠償金]]であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。シャイデマンは条約に抗議して辞職し、[[グスタフ・バウアー]]内閣が成立した。
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