「ルール地方」の版間の差分

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Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
「ミュンヘン会談」を加筆。lk
Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
「デモンタージュ」に加筆。lk
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|location=日本、東京
|id=ISBN 978-4842055510
}}pp.91-93</ref>({{仮リンク|アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件|fr|Assassinat du roi Alexandre Ier et de Louis Barthou}})。[[1935年]]の[[ドイツ再軍備宣言]]後は、抑制されてきた[[軍需産業]]も急速に復興していき、[[1936年]]には失業問題は解決し、ルール地方も含む[[非武装地帯]]とされた[[ラインラント]]への軍事進駐([[ラインラント進駐]])を開始した。[[1938年]][[2月20日]]にイギリスの[[アンソニー・イーデン|イーデン]][[外務・英連邦大臣|外相]]が、[[ネヴィル・チェンバレン]][[イギリスの首相の一覧|首相]]の対ドイツ・イタリア[[宥和政策]]に反対して辞任、政変に揺れるフランスでも{{仮リンク|カミーユ・ショータン|fr|Camille Chautemps|en|Camille Chautemps}}が辞任して[[レオン・ブルム]]が新[[フランスの首相|首相]]に就任した[[3月13日]]に、外交的空白を突いてドイツによるオーストリア併合([[アンシュルス]])が行なわれた。9月には[[ミュンヘン会談]]が行なわれ、[[ズデーテン地方]]がドイツに譲渡された([[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体]])。[[10月1日]]にナチスは[[シュコダ財閥]]の軍需工場を接収した。
{{-}}
=== 第二次世界大戦 ===
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連合国のうちフランスは「ドイツの勢力拡大を防ぐため、ルールを含む[[ラインラント]]と[[ザールラント]]をドイツから分離する」という[[モネ・プラン]]を戦争中から主張していたが、アメリカ([[モーゲンソー・プラン]])とイギリスは受け入れなかった。
占領が始まるとルール地域の工場・施設の解体が行われ、事実上の賠償として西側諸国に送られ、ドイツ人の激しい抵抗を呼んだ({{仮リンク|デモンタージュ([[:|de|Demontage (Reparation)|en:|Industrial plans for Germany#Reparations and exploitation]]))}})<ref>金子、22p</ref>。
 
{{See also|バイゾーン|}}