「統制派」の版間の差分
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皇道派=北進論 統制派=南進論ではない。 |
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[[二・二六事件]]に失敗・挫折した皇道派の著しい勢力弱体や世界の列強各国での[[集産主義]]台頭、他、[[世界恐慌]]に対し有効性を示した[[ブロック経済]]への羨望が進むにつれ、当初の結成目的・本分から徐々に外れ、合法的に政府に圧力を加えたり、あるいは持論にそぐわない政府の外交政策に対し[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯]]を盾に公然と非協力な態度・行動をとったりサボタージュも厭わない[[軍閥]]へと変容していった。[[革新官僚]]とも繋がりを持つ軍内の「近代派」であり、近代的な[[軍備]]や産業機構の整備に基づく、[[総力戦]]に対応した高度国防国家を構想した。旧[[桜会]]系統の[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、陸軍省の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は永田鉄山、東條英機。
中心人物の永田鉄山が皇道派の[[相沢三郎]][[陸軍中佐]]に暗殺された([[相沢事件]])後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による[[二・二六事件]]が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が[[陸軍大臣]]になることを阻むべく[[軍部大臣現役武官制]]を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、実際に存在した共産国家に近く[[全体主義]]色の強い[[東條内閣]]を成立させるに至る。
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