「カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク」の版間の差分

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'''カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク侯爵'''('''Karl August Fürst von Hardenberg'''、[[1750年]][[5月31日]] –[[1822年]][[11月26日]])は、[[プロイセン王国]]の宰相(任[[1810年]]6月 - 1822年11月)。[[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン|シュタイン]]につづいて自由主義的諸改革を実施した開明的な政治家。
 
[[Image:Fürst Hardenberg.jpg|thumb|ハルデンベルク([[:de:Friedrich Georg Weitsch|Friedrich Georg Weitsch]]画)]]
== 生涯 ==
1750年に[[ニーダーザクセン州|ニーダーザクセン]]に生まれる。[[ティルジットの和約]]以後、[[ナポレオン・ボナパルト]]率いるフランスにより領土・人民ともに半減したプロイセンの政治家として、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]に仕え、[[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン]]とともに自由主義諸改革を推し進め、[[1808年]]のシュタイン失脚後も改革路線を引き継いだ。
 
1810年[[6月4日]]、プロイセン宰相に就任。行政機構改革の整理、財政整理改革、農業改革、営業の自由化、軍備の充実などをおこない、[[1812年]][[7月30日]]には、一連の内政改革の締めくくりとして治安警察令を発布し、警察機構の再編を断行した。
1750年に[[ニーダーザクセン州|ニーダーザクセン]]に生まれる。[[ティルジットの和約]]以後、[[ナポレオン・ボナパルト]]のフランスにより、領土・人民ともに半減したプロイセンの政治家として、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]に仕え、[[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン]]とともに自由主義諸改革を推し進め、[[1808年]]のシュタイン失脚後も改革路線を引き継いだ。
 
1810年[[6月4日]]、プロイセン宰相に就任。行政機構改革、財政整理、農業改革、営業の自由化、軍備の充実などをおこない、[[1812年]][[7月30日]]には、一連の内政改革の締めくくりとして治安警察令を発布し、警察機構の再編を断行した。
 
[[1814年]][[9月1日]]から翌[[1815年]]まで開催された[[ウィーン会議]]ではプロイセンの[[全権]]を務め、領土の拡張に成功した。1815年[[6月8日]]のドイツ連邦規約により、[[ライン同盟]]は解体され、[[オーストリア帝国]]を盟主とする[[ドイツ連邦]]が成立し、プロイセンは4つの帝国自由都市([[リューベック]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]])などとともに同盟を構成した。なお、連邦は旧[[神聖ローマ帝国]]の領域を範囲としたため、オーストリアとプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。