「ハルジー朝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
73行目:
== 歴史 ==
===成立===
[[1287年]]に[[奴隷王朝]]の[[ギヤースッディーン・バルバン]]が死んだ後、後を継いだ[[ムイズッディーン・カイクバード]]が若年で統率力が無かったため、貴族などによる内紛が続くが、その中から[[テュルク]]系の混血部族とみなされて奴隷王朝では低く扱われていた{{仮リンク|ハルジー族|en|Khalaj people}}が台頭した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.124</ref>
 
その長[[ジャラールッディーン・ハルジー]](在位1290 - 1296)は、[[1290年]]にカイクバードを殺害して奴隷王朝を滅ぼし、自ら[[スルターン]]位に即位してハルジー朝を開いた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.124</ref>
 
===アラー・ウッディーンの治世===
しかし、ジャラールッディーン・ハルジーは[[1296年]]に甥の[[アラー・ウッディーン・ハルジー]](在位1296 - 1316)によって暗殺された<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.127</ref>
 
かわって、第3代スルターンに自ら即位したアラー・ウッディーンは卓越した軍事的才能の持ち主で、モンゴル帝国によるインド侵入を5度に渡って撃退した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.129</ref>。[[ギヤースッディーン・バルバン]]に率いられた[[奴隷王朝]]に撃退されて以降、モンゴル帝国が抱いていたインド侵略を再び挫折させることに成功し<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.129</ref>、これらの武勲で一気に名声を高めたアラー・ウッディーンは自らを「第二の[[アレクサンドロス大王]](シカンダル・サーニーまたはスィカンダル・サーニー)」と称した。アラー・ウッディーンはモンゴル帝国の脅威がなくなると[[マリク・カーフール]]に命じ、積極的な[[デカン]]、[[南インド]]遠征を敢行し、[[ヤーダヴァ朝]]、[[カーカティーヤ朝]]、[[ホイサラ朝]]といったヒンドゥー王朝を服属させ、[[パーンディヤ朝]]の首都[[マドゥライ]]を落とし、[[1310年]]までにデカン、インド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝に広大な版図をもたらした。
 
アラー・ウッディーンはモンゴル帝国の脅威がなくなると[[マリク・カーフール]]に命じ、積極的な[[デカン]]、[[南インド]]遠征を敢行し、[[ヤーダヴァ朝]]、[[カーカティーヤ朝]]、[[ホイサラ朝]]といったヒンドゥー王朝を服属させ、[[パーンディヤ朝]]の首都[[マドゥライ]]を落とし、[[1310年]]までにデカン、インド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝に広大な版図をもたらした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.130</ref>。
また、この頃、現[[アフガニスタン]]の山岳地帯に駐留してたびたびインドに侵入してきた[[モンゴル帝国|モンゴル帝国]]の[[チャガタイ・ハン国]]軍を、ハルジー朝に仕える地方総督の[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]らの活躍で撃退し、インドの自立を保っている({{仮リンク|モンゴルのインド侵攻|en|Mongol invasions of India}})。
 
また、この頃、現[[アフガニスタン]]の山岳地帯に駐留してたびたびインドに侵入してきた[[モンゴル帝国|モンゴル帝国]]の[[チャガタイ・ハン国]]軍を、ハルジー朝に仕える地方総督の[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]らの活躍で撃退し、インドの自立を保っている({{仮リンク|モンゴルのインド侵攻|en|Mongol invasions of India}})<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.129</ref>
アラー・ウッディーンは、内政面においては、貴族統制のために密告を奨励したり、[[ヒンドゥー教徒]]の地方領主を抑圧して統制力を高め、厳格な物価統制や検地による経済と税収の安定化を行なうなど、強圧的に施策を行った。さらに、デカン、南インド遠征の成功により得た多大な戦利品などもあって、ハルジー朝は文化的、経済的にも大きく発展することとなり、全盛期を迎えた。だが、アラー・ウッディーンの晩年には奢侈に溺れ、早くも衰退の兆しが見え始めた。
 
アラー・ウッディーンは、内政面においては、貴族統制のために密告を奨励したり、[[ヒンドゥー教徒]]の地方領主を抑圧して統制力を高め、厳格な物価統制や検地による経済と税収の安定化を行なうなど、強圧的に施策を行った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.129-130</ref>。さらに、デカン、南インド遠征の成功により得た多大な戦利品などもあって、ハルジー朝は文化的、経済的にも大きく発展することとなり、全盛期を迎えた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.129</ref>。だが、アラー・ウッディーンの晩年には奢侈に溺れ、早くも衰退の兆しが見え始めた。
===滅亡===
[[1316年]]にアラー・ウッディーンが死去した後、アラー・ウッディーンの側近であった[[宦官]]の[[マリク・カーフール]]が実権を掌握した。さらにカーフールの政権が短期間で倒れた後も、スルターン位と権力を巡る争いが続いて政治が混乱し、この内紛でハルジー朝は急速に衰退していった。
 
===衰退と滅亡===
後を継いだのは結局、放蕩者の息子[[クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー]](在位1316 - 1320)で、宦官の[[ホスロー・ハーン]]が実権を握って、[[1320年]]にムバーラク・シャーは殺害された。
[[1316年]]にアラー・ウッディーンが死去した後、アラー・ウッディーンの側近であった[[宦官]]の[[マリク・カーフール]]が実権を掌握した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.130</ref>。さらにカーフールの政権が短期間で倒れた後も、スルターン位と権力を巡る争いが続いて政治が混乱し、この内紛でハルジー朝は急速に衰退していった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.131</ref>
 
後を継いだのは結局、放蕩者の息子[[クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー]](在位1316 - 1320)で、宦官奴隷の[[ホスロー・ハーン]]が実権を握って、[[1320年]]にムバーラク・シャーは殺害された<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.132</ref>
同年に[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]が内紛を制して、[[トゥグルク朝]]を起こしてハルジー朝に取って代わり、アラー・ウッディーンの死からわずか4年後、ハルジー朝はわずか30年で滅亡した。
 
同年に[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]が内紛を制して、[[トゥグルク朝]]を起こしてハルジー朝に取って代わり、アラー・ウッディーンの死からわずか4年後、ハルジー朝はわずか30年で滅亡した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.132</ref>
 
==脚注==
{{reflist}}
 
== 歴代君主 ==
101 ⟶ 106行目:
 
==参考文献==
*{{Cite|和書|author =フランシス・ロビンソン著、小名康之監修|authorlink = フランシスロビンソン| translator=月森左知訳 『|title =ムガル皇帝歴代誌  インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』 1925年)|publisher =創元社|date =2009年|isbn =}}
*{{Cite|和書|author =サティーシュ・チャンドラ|authorlink=サティーシュ・チャンドラ|translator=小名康之、長島弘|title =中世インドの歴史|publisher =山川出版社|date =2001年|isbn =}}
*{{Cite|和書|author =小谷汪之編 『|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界歴史大系  南アジア史2―中世・近世―』 |publisher =山川出版社|date =2007年| isbn =}}
 
==関連項目==
*[[デリー・スルターン朝]]
 
{{DEFAULTSORT:はるしちよう}}
111 ⟶ 120行目:
[[Category:14世紀]]
 
{{History-stub}}
{{India-stub}}
{{islam-stub}}
{{インドの王朝}}