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[[陸軍幼年学校]]を中退後、[[神戸市|神戸]]の乾行義塾で中国語を学ぶ。[[1910年]][[中国]]に渡り、[[大陸浪人]]として[[辛亥革命|武漢革命]]に参加するが、後に[[川島浪速]]・[[佐々木安五郎]]と知り合い、[[清朝]]復辟運動に転じた。[[1913年]]に帰国し、[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]・[[田中弘之]](舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に起こった[[外務省]]政務局長・[[阿部守太郎]]暗殺事件で[[殺人教唆]]の罪に問われ、[[無期懲役]]の判決を受ける。[[1925年]][[恩赦]]を受け釈放、再び中国に渡り[[1927年]]に帰国した。
 
[[1928年]][[松木良勝]]らとともに、[[反共]]・積極的大陸政策を唱えた[[右翼団体]]・[[愛国社 (1928年-)|愛国社]]を結成する。[[1930年]]11月に団員の[[佐郷屋留雄]]による[[濱口首相遭難事件|濱口首相襲撃事件]]が起こるが、佐郷屋は愛国社の関与を否定した。後に佐郷屋は岩田の娘婿となる。その後[[1931年]]に[[神奈川県]]に愛国社生田村塾を開いて子弟の教育に当たった他、愛国学生連盟・愛国青年連盟・愛国法曹連盟・愛国労働連盟などを結成し、[[満州事変]]を支持した。[[1937年]]には[[井田磐楠]]・[[入江種矩]]らと[[国際反共連盟]]、[[葛生能久]]らと対支同志会を結成して[[暴支膺懲]]を叫び、さらに[[上海]]に「岩田公館」を設けて対支工作に当たった。
 
戦後[[公職追放]]となり、[[1950年]]に死去。