「周文育」の版間の差分

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[[549年]]([[太清]]3年)、陳霸先が[[侯景]]を討つために北伐を開始すると、文育は杜僧明とともに前軍をつとめ、蘭裕を撃破し、[[欧陽ギ|欧陽頠]]を救援するのに、いずれも功績があった。[[550年]]([[大宝 (梁)|大宝]]元年)、陳霸先が蔡路養を南野で討ったとき、文育は蔡路養の包囲を受けた。乗馬を失いながらも包囲を突破し、杜僧明と合流して再び進軍すると、蔡路養を撃破した。文育は陳霸先の下で府司馬となった。
 
李遷仕が大皐に拠り、その部将の杜平虜が灨石・魚梁に入って城を建てると、文育は陳霸先の命を受けて杜平虜を攻撃した。杜平虜が城を棄てて敗走すると、文育は城を占拠した。李遷仕は杜平虜の敗北を知ると、老弱の兵を大皐を残して、自らは精兵を選んで文育を攻撃した。文育と李遷仕のあいだの戦いは一進一退があったが、杜僧明が陳霸先の命を受けて来援し、李遷仕の水軍を別に破ったため、李遷仕の戦線は崩壊し、大皐を避けて新淦に敗走した。文育は梁の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]により仮節・雄信将軍・[[義州]]刺史に任じられた。李遷仕が劉孝尚とともに再び陳霸先を攻撃しようと図ると、文育は[[侯安都]]・杜僧明・[[徐度]]・[[杜稜]]らとともに白口に築城して李遷仕をはばんだ。[[551年]](大宝2年)、文育はたびたび出戦して、ついに李遷仕を捕らえた。
 
陳霸先が[[南康郡]]を出立するにあたって、文育は5000の兵を動員して水路を開通させた。侯景の部将の王伯醜が[[豫章郡]]に拠ると、文育はこれを撃破して豫章を占拠した。前後の戦功により、游騎将軍・員外散騎常侍の位を受け、東遷県侯に封じられた。