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|代表成績更新日=2013年3月22日
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'''アドリアン・ムトゥ'''(Adrian Mutu, [[1979年]][[1月8日]] - )は、[[ルーマニア]]・[[ピテシュティ]]出身の[[サッカールーマニア代表|同国代表]]の元[[サッカー|サッカー選手]]。現役時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]及び[[ミッドフィールダー]]。
 
== 人物 ==
[[ゲオルゲ・ハジ]]引退後のルーマニアサッカー界の牽引者であり、[[パルマFC]]や[[ACFフィオレンティーナ]]での活躍から2000年代の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]外国人選手を代表する選手である<ref>2007年、2008年には[[オスカル・デル・カルチョ]]の最優秀外国人選手にノミネートされている。[http://www.assocalciatori.it/aic/aic.nsf/Albo?OpenForm&Seq=1]{{it icon}},2010-2-11閲覧</ref>。多くのスキャンダルにも見舞われ、[[2004年]]に自らが引き起こした[[ドーピング]]問題(コカイン摂取)では解雇・長期に渡る出場停止処分と、自身のキャリアに多大な影響を与えることとなった<ref name="corriere">[http://archiviostorico.corriere.it/2008/agosto/15/Stangata_per_Mutu_paghi_milioni_co_9_080815055.shtml Stangata per Mutu: paghi 17 milioni]corriere.it(2008-8-15){{it icon}},2010-2-1閲覧</ref>。2006年には間接的にではあるが[[カルチョ・スキャンダル|カルチョーポリ]]に巻き込まれる。その後のフィオレンティーナにて復活を果たすも、前述のドーピング問題における訴訟や、2010年には再びドーピング問題を引き起こす<ref name="bali20100110">[http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2010/01/29/1765449/%E3%83%A0%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%A4%9C%E6%9F%BB%E3%81%A7%E9%99%BD%E6%80%A7%E5%8F%8D%E5%BF%9C ムトゥ、ドーピング検査で陽性反応]Goal.com(2010-1-29),2010-2-1閲覧</ref><ref name="lazio20100120">[http://goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2010/01/30/1767464/%E3%83%A0%E3%83%88%E3%82%A5%E5%88%A5%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%A4%9C%E6%9F%BB%E3%81%A7%E3%82%82%E9%99%BD%E6%80%A7%E5%8F%8D%E5%BF%9C ムトゥ、別日の検査でも陽性反応]Goal.com(2010-1-30),2010-2-1閲覧</ref>など波乱に満ちたサッカー人生を送った。プレイヤーとしては[[セカンドトップ]]や[[トレクァルティスタ]]としてフィオレンティーナを牽引する存在であり、フィオレンティーナのティフォージからは敬意を込めて'''フェノメーノ'''(''Fenomeno''※イタリア語で「超常現象」や「怪物」の意)と呼ばれ<ref>[http://www.firenzeviola.it/?action=read&idnotizia=57319 PAGELLE, Mutu Fenomeno, bene Babacar]firenzeviola.it(2010-1-14){{it icon}},2010-2-1閲覧</ref>。また、キャリアを通じて自らを救った[[チェーザレ・プランデッリ]]と[[ファビオ・カペッロ]]の両監督には深く感謝していると語っている。
 
== 来歴 ==
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==== イタリア時代 ====
[[1999年]][[12月1日]]に[[セリエA (サッカー)|イタリア]]の[[インテル・ミラノ]]へ移籍。イタリアでの初得点は、[[コッパ・イタリア]]での対[[ACミラン]]戦であった。渡伊1年目はリーグ戦は無得点に終わるものの10試合出場し、カップ戦では計2得点するをあげた。[[2000年]][[7月1日]]には[[エラス・ヴェローナFC]]に共同保有の形で移籍。移籍後1年目はカンピオナートの[[SSラツィオ]]戦、[[SSCナポリ]]戦、にそれぞれ重要な得点をし、[[ASバーリ]]戦ではドッピエッタ(2得点)を達成した。2年目には1シーズン12得点をマークし、自身は再び[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の上位クラブから注目を集めるが、チームは低迷し2001-2002シーズン終了後[[セリエB (サッカー)|セリエB]]に降格してしまう。クラブは降格に伴い、ムトゥの保有権を売却することになる。2002-2003シーズンは[[パルマFC]]でプレーし、攻撃の要として活躍。[[アドリアーノ・レイテ・リベイロ|アドリアーノ]]、[[中田英寿]]と3トップを形成し、リーグ戦で31試合出場18得点と渡伊後最高の成績でシーズンを終え。[[UEFAカップ]]においても4試合出場中4得点をマークする。
 
==== イングランド時代 ====
[[2003年]][[8月1日]]には[[プレミアリーグ|イングランド]][[チェルシーFC]]へ加入し、同年のルーマニア最優秀選手に選出されるなど順風満帆かに思われたが、[[2004年]][[10月19日]]に[[ドーピング]]検査で[[コカイン]]の陽性反応を示し、7ヶ月のプロ公式戦出場資格の剥奪と2万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の罰金が[[フットボール・アソシエーション|イングランドサッカー協会]]から言い渡された<ref name="corriere"/>。長期の試合出場停止を余儀なくされ、チェルシーを解雇され
 
==== 再びイタリアへ ====
[[Image:Adrian Mutu Roberto Vicario.jpg|thumb|left|200px|再起後のムトゥ]]
[[2005年]][[1月31日]]に所属クラブを失ったムトゥに目を付けた[[ユヴェントスFC]]が5年契約を提示、ムトゥは同クラブと契約する。このシーズンの移籍市場で新たに外国人選手を登録する枠を使い切っていたユヴェントスは、一度[[ASリヴォルノ・カルチョ]]にシーズン終了まで契約させることでムトゥを手元に置くことに成功する。再起を懸け[[ファビオ・カペッロ]]監督の元で地道にトレーニングを積み、翌シーズンである2005-2006シーズンには32試合に出場し7得点をあげ。しかし、クラブは[[カルチョ・スキャンダル]]により降格を余儀なくされ、主力選手を数人放出することになる。ムトゥもその中の1人であり、ムトゥはパルマ在籍時のかつての恩師である[[チェーザレ・プランデッリ]]が指揮をとる[[ACFフィオレンティーナ]]に800万ユーロの移籍金で移籍することになった<ref>[http://www.juventus.com/site/filesite/finance/comunicatipricesensitive/10_lug_2006_eng_fio.pdf 800万ユーロでムトゥを売却]ユヴェントス公式(2006-7-10){{it icon}},2010-2-1閲覧</ref>。
 
加入1年目となる2006-2007シーズンはリーグ戦33試合出場で16得点、多くのアシストも決め、[[カルチョ・スキャンダル]]のペナルティにより15ポイント勝ち点を減らされたチームをリーグ5位の座に導く。このシーズン、ムトゥはイタリア全国紙の[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]紙の試合採点の平均点が最高の選手であり、[[イタリア放送協会]]やDatasportからはグッドプレーヤー賞を送られ<ref>[http://www.gazzetta.it/Magic_Cup/Primo_Piano/2007/05_Maggio/29/magic_2905.shtml Mutu è il migliore]gazzetta.it(2007-5-29){{it icon}},2010-2-1閲覧</ref>、かつての恩師の下で復活を果たした。2007-2008シーズンはリーグ戦29試合出場中17得点し、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]出場権の得られるリーグ4位の座に貢献、加えてUEFAカップでは6得点を挙げ準決勝進出に導いた。[[ルカ・トーニ]]が去った後のフィオレンティーナのエースストライカーとしての地位を確固たるものとした。
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[[2010年]][[1月10日]]の[[ASバーリ]]戦後のドーピング検査で禁止薬物である[[シブトラミン]]が検出され<ref name="bali20100110"/>、[[1月20日]]の[[コッパ・イタリア]]準々決勝・[[SSラツィオ]]戦後のドーピング検査でも同薬品の陽性反応が出た<ref name="lazio20100120"/>。この結果を受け、イタリア・オリンピック委員会(CONI)はムトゥに対し9ヶ月の出場停止処分を言い渡した<ref>footballista、2010年5月12日号</ref>。シーズン終了後の[[6月14日]]に、チェルシーへの損害賠償の件でスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴していたものは退けられていたことがわかり、さらにスイス連邦裁判所に提訴したが、こちらも認められずに5年におよんだ法廷での争いが終わったと報道された<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/0910/headlines/20100614-00000037-kyodo_sp-spo.html ムトゥに19億円の賠償命ず スイスの裁判所]sportsnavi.yahoo.co.jp(2010-6-14),2010-6-14閲覧</ref><ref>[http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2010/06/14/1975810/%E3%83%A0%E3%83%88%E3%82%A5%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%90%EF%BC%90%E4%B8%87%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%81%AE%E6%94%AF%E6%89%95%E3%81%84%E3%81%AF%E9%81%BF%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9A ムトゥ、1700万ユーロの支払いは避けられず?]goal.com(2010-6-14),2010-6-14閲覧</ref>。
 
[[2011年]][[6月23日]]に[[ACチェゼーナ]]に2年契約で加入<ref>[http://www.cesenacalcio.it/index.php?option=com_content&view=article&id=4998%3Aadrian-mutu-e-un-giocatore-del-cesena&catid=4%3Acomunicato-stampa&Itemid=121&lang=ja Adrian Mutu è un giocatore del Cesena]cesenacalcio.it(2011-6-23){{it icon}},2011-6-23閲覧</ref>し、チームトップの8得点を挙げたが、得点力不足が大きく響いて最下位に沈み[[セリエB (サッカー)|セリエB]]に降格となった。
 
==== フランス時代 ====