「カトリック連盟」の版間の差分

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[[1613年]]、[[レーゲンスブルク]]帝国議会において、[[オーストリア大公]]国が連盟に参加した。こうして、連盟は、マクシミリアン1世、[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ (1559-1621)|アルブレヒト・オーストリア大公]]及び[[マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒ|オーストリア大公マクシミリアン3世]]の3人の指導者を迎えることになった。連盟の目的はいまや、『キリスト教社会の合法的防衛』となっていた。オーストリアの参加は、連盟に、皇帝と[[ボヘミア]]及び[[ニーダーエスターライヒ州|低地オーストリア]]のプロテスタント諸侯との対立をもたらし、それは、[[三十年戦争]]の開戦の前哨となった。
 
[[Image:Joachim von Sandrart 009- Maximilian I, Elector of Bavaria.jpg|thumb|left|200px|バイエルン公[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]]]
オーストリア大公マクシミリアン3世、マインツ大司教及びトリーア大司教が、[[アウクスブルク司教]]と[[エルヴァンゲン修道院]]長を、バイエルンの幹部に迎えようとするのに抗議したのに対し、マクシミリアン1世はレーゲンスブルクの決議を受け入れることを拒否し、連盟における地位を辞任した。そして、[[1617年]][[5月27日]]、バイエルン公国はバンベルク司教領、アイヒシュテット司教領、ヴュルツブルク司教領及びエルヴァンゲン修道院領と別の同盟を組み、その状況が9年間続いた。