「ジョン・フォーブズ・ケリー」の版間の差分

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ベイハプ川からの運河を他の哨戒艇3隻と共にパトロールしていたが、その水路は[[南ベトナム解放民族戦線]]の拠点だった。他の哨戒艇がドンクン川の近くで待ち伏せされたとの報告を受け、それらの支援に向かったとき、解放戦線からのB-40ロケット弾の砲撃をキャビンに受けた。通常であれば川岸へ砲撃を行い次に回避行動を取るのをケリーは副長のサンダスキーに艇を直接岸の待ち伏せに乗り上げさせるように命令した。この行動が勇気あるものかそれとも無鉄砲だったのか異論があるが、事実は明白である。艇が岸に乗り上げるとベトコンは[[グレネード・ランチャー]]を抱えて茂みに飛び込んだ。機銃手のトミー・ベロドウはM-60機銃を敵の足に撃ち込んだ。ベロドウの機銃は発射後給弾不良を起こし、マイケル・メディロスが銃撃しようとしたができなかった。
 
ケリーはメディロスと敵兵の死体を探し、艇に戻りロケットランチャーを取った。監督官は艇を浜に引き上げたことでケリーを軍法会議にかけるべきか、乗組員を救ったことで彼にメダルを与えるべきであるかどうか分からないとジョークを言った。結局ケリーは[[銀星章シルバースター]]を受章した。
 
3月13日にケリーの艇は[[機雷]]に接触すると共に激しい銃撃を受けた。左上[[臀部]]に[[榴散弾]]の破片を受け、回復まで二日を要した。この負傷と、グリーンベレー隊員ジェームズ・ラスマンの救出活動でケリーは三度目の名誉負傷[[パープルハート]]と[[青銅星章ブロンズスターメダル]]を受章した。
 
ケリーは三度の負傷後に帰国した。ケリーのベトナムでの任務は4月前半に終了し、その後11ヶ月をアメリカ本国で勤務した。ケリーは1966年2月から1970年3月まで4年間軍で勤務した。1970年に海軍予備役となりその後1972年には待機予備役に編入され、1978年に[[名誉除隊]]した。