「コリントス同盟」の版間の差分

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[[File:Map Macedonia 336 BC-en.svg|thumb|300px|ピリッポス2世暗殺直後のマケドニア王国支配領域。黄色の地域一帯がコリントス同盟。]]
'''コリントス同盟'''(コリントスどうめい)もしくは'''ヘラス同盟'''は、[[ピリッポス2世]]が[[カイロネイアの戦い]]の勝利後の紀元前337年に[[コリントス]]で結成させた同盟。[[スパルタ]]を除く[[ギリシア]]の全[[ポリス]]が加盟した。コリントス同盟の加盟国は自由自治が認められ、相互不可侵の平和条約が締結された。しかし、現存国制の維持や、負債帳消し・土地の再配分・奴隷解放の無効など、この同盟はギリシア北方の[[マケドニア王国]]がギリシア南部を支配しやすくするための同盟でもあった。
 
スパルタにもコリントス同盟に加わるように促したが、拒絶された。ピリッポス2世もそれを受け入れたので、スパルタは周辺地域における支配力は維持し続けた。
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コリントス同盟により、[[ペルシア戦争]]でギリシアに多大な損害をもたらした復讐として[[アケメネス朝|ペルシア]]討伐が決議され、各ポリスはその為に兵士をマケドニア王国に派遣した。この兵士たちは人質の役目も果たした。ピリッポス2世が暗殺された後は、その息子である[[アレクサンドロス大王]]がコリントス同盟の盟主を引き継いだ。
 
アレクサンドロス大王はペルシア討伐の東方遠征を開始し、[[ガウガメラの戦い]]でペルシア帝国軍を破った際には、ペルシア兵の武具を[[デルポイ]]に献上した。また、[[ペルセポリス]]の宮殿を炎上させ、[[アテナイ]]を焼き払ったことへの復讐を成し遂げた。その間、ギリシア本土はマケドニア王国の圧倒的な軍事力を背景にしたコリントス同盟によって、平和が訪れていた。
 
== 関連項目 ==