「徳田球一」の版間の差分

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==経歴==
[[沖縄県]][[名護市]]出身。家業は印刷屋。「球一」の名は「[[琉球]]一の人物」になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一[[旧制中学校|中学校]](現[[沖縄県立首里高等学校]])卒後、[[第七高等学校 (旧制)|旧制第七高等学校]]に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学、苦学して[[日本大学]]の夜間部を卒業、[[弁護士]]になった。[[1920年]]([[大正]]9年)、[[日本社会主義同盟]]に参加。[[1921年]](大正10年)に[[ソビエト連邦|ソ連]]を訪問。[[1922年]](大正11年)、非合法の日本共産党([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])結成に参加。中央委員に選出される。[[1925年]](大正14年)、[[1927年]](昭和2年)にもソ連に渡った。[[1928年]](昭和3年)の[[第16回衆議院議員総選挙|第1回普通選挙]]に[[労働農民党]]から出馬(福岡第3区)したが落選、直後の2月26日に[[治安維持法]]違反で[[門司駅]]で逮捕された。これが直後の[[三・一五事件]]のはしりとなる。徳田はそのまま獄中で18年を過ごした。
 
[[第二次世界大戦]]終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[10月10日]]に、[[府中刑務所]]を訪れた[[フランス]]人[[ジャーナリスト]]の[[ロベール・ギラン]]によって発見され出獄。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で[[書記長]]に就任。[[1946年]](昭和21年)には[[中華民国]]から帰国した[[野坂参三]]と共に[[衆議院|衆議院議員]]に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と結婚。