「シモン・ボリバル」の版間の差分

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=== ペルー解放 ===
[[ファイル:Battle of Ayacucho.jpg|thumb|270px|{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}]]
サン・マルティンが引退したためペルーはボリバルの大コロンビアに援軍を依頼し、1823年にボリバルはまずスクレを先遣隊として派遣したのち、[[1823年]]9月にはボリバル自身がペルーへと移動した。ボリバル軍は[[リマ]]に進出し、リマの東山地に陣地を築いていたスペイン軍と対峙した。ボリバルは 1824年2月8日にペルーの第8代大統領に選出され、大コロンビアとペルーの大統領を兼任することとなった。ピチンチャの戦いで活躍したスクレを総司令官(実質的には参謀長)に据えて、攻略を開始した。ボリバルは病に倒れ戦線を離脱したが、スクレが1824年12月9日、{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}で大勝し、ペルー副王の{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・セルナ|en|José de la Serna e Hinojosa}}を降伏させた。
 
ペルー解放によって南アメリカの独立戦争の大勢は決したが、依然として[[アルト・ペルー]](高地ペルー)は依然としてスペイン軍に支配されていたが、。しかしペルーから進軍したスクレが[[1825年]]4月に解放し、ラテン・アメリカ大陸部での解放戦争はここに終結した。こうして植民地時代には同一の行政区画だったペルー、アルゼンチンとの連合を望まなかったアルト・ペルー支配層と、ボリバルらの思惑が一致したためアルト・ペルー共和国が誕生した。1825年[[8月6日]]、アルト・ペルー共和国議会は独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、独立に際して国名を[[ボリビア]]、首都名を[[スクレ (ボリビア)|スクレ]](旧チャルカス)と定めた。1825年8月12日、ボリバルは新生ボリビア共和国の初代大統領に選出され、大コロンビア・ペルー・ボリビアの3か国の元首を兼任することとなったが、ボリビアにおけるボリバルの大統領位は名誉職的なものにすぎず、同年の12月29日には大統領を辞任して後任をスクレに任せた。
 
== 独立後 ==
 
=== 内乱 ===
成立した大コロンビアであったが、国内の3地域(ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キト)の対立は激しく、特にベネズエラとヌエバ・グラナダ間の対立は先鋭化するばかりだった。ベネズエラ地域の実力者であるホセ・アントニオ・パエスと議会との対立は1824年以降先鋭化し、これをおさめるためにボリバルがパエスに融和的な態度を示すと、ヌエバ・グラナダを基盤とするサンタンデールが不満を募らせていった。ボリバルが独立戦争時の経験などから中央集権を求め、カトリック教会を重視し、大統領については終身制が望ましいと考えていたのに対し、サンタンデルは地方分権の連邦制を求め、[[信教の自由]]を保障し、大統領は任期制の上再任不可が望ましいとしていたため、路線対立によって対立はさらに深まった。ボリバル派は「追従派」、サンタンデル派は「自由派」と呼ばれるようになり、党派対立は深まるばかりだった。[[1827年]]、大コロンビアのベネズエラとヌエバ・グラナダの間で内乱が起きると、鎮圧のためボリバルは1827年1月28日にペルー大統領を辞任し、リマを去った。ボリバルは、あくまで大コロンビア、ラテンアメリカ連合の維持を理想とした。[[1828年]]4月にはオカーニャにて大コロンビア国民会議(憲法制定会議)を招集した。この時ボリバルは自派である追従派の多数派工作を行っていたのだが、いざ会議が始まると自由派が多数を占めるようになり、ボリバルのもくろみは外れてしまった。このためボリバルは8月にサンタンデルを解任し、憲法を停止して、独裁権を手中に収める。しかし、翌月には解任されたサンタンデル派によってボリバル暗殺計画が立てられ、ボリバルは大統領宮殿から危機一髪で逃げ出すこととなった。このためボリバルはサンタンデルを国外追放処分としたが、自身の健康状態の悪化などにより事態は流動的になり始めた。
 
[[1829年]]にはペルー大統領となったアグスティン・ガマーラが現在のエクアドルにあたる地域の領有を要求し[[ペルー軍]]がグアヤキルに侵入した({{仮リンク|グラン・コロンビア=ペルー戦争|en|Gran Colombia–Peru War}})。これはスクレによって撃破されたが、もはやボリバルの権威の低下は誰の目にも明らかだった。さらにボリバル配下の将軍[[ホセ・マリア・コルドバ]]が反乱を起こす。これもまた鎮圧されたが、1829年の秋には、ベネズエラでホセ・アントニオ・パエスが大コロンビアから分離独立を宣言し、[[1830年]]に入るとまずベネズエラが正式に完全分離独立を宣言、続いてキトとグアヤキルがエクアドルとして独立した。
 
=== 最期 ===
植民地時代にはアメリカ大陸でも有数の大富豪だったボリバル家も、シモンが革命の理念とハイチ人との約束のために自らの奴隷を解放し、農園や鉱山を売却し、私財のほぼ全てを投じて解放戦争を続けたために死の直前には財産はほとんど何も残っておらず、シモンの死によってボリバル家は完全に没落した。その一方でベネスエラのパエスやエクアドルの{{仮リンク|フアン・ホセ・フローレス|en|Juan José Flores|label=フローレス}}、ペルーの{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・マール|es|José de La Mar|en|José de la Mar|label=デ・ラ・マール}}のように、かつての部下だった将軍達の多くはボリバルを裏切り、解放戦争によって得た権力で私財を蓄え、各国の寡頭支配層を形成した。後世への戒めか、死の間際に「革命の種子を播こうとする者は、大海を耕す破目になる」という言葉を残している。
 
とくにヌエバ・グラナダにおいては、ボリバル派(中央集権派・保守派)とサンタンデル派(地方分権派・自由派)の対立は、以後100年以上にわたる同国の国内対立の淵源をなすものだった。ボリバルの失脚に伴ってボリバル派の勢いは衰え、[[1832年]]にサンタンデルが亡命先から帰国して大統領となるとその趨勢はさらに顕著なものとなった。サンタンデルは法治主義を奉じ自由主義的な統治を行ったが、一方でボリバル派の人物を政権から徹底的に排除し、これが現代までコロンビアで続く猟官制の原因となった<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』p57 アジア経済研究所、2011年。ISBN 4258051136</ref>。やがて自由派内において穏健派と急進派の路線対立が生じるようになる。穏健派は思想を保守化させたうえでボリバル派と政治同盟を組むようになり、やがて両派は合同して保守党を結成。自由派の後身である自由党と激しい政治闘争を繰り返すようになる。この闘争は[[1990年代]]にいたるまでじつに160年以上にもわたって続き、幾度もの激しい内戦とコロンビアの政治的な不安定さを招く主因となった。
 
== 人物像 ==