「会津藩」の版間の差分

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[[ファイル:Matudaira Katamori.jpg|thumb|180px|松平容保]]
[[File:Flag of Aizu early Meiji Bakumatsu.svg|right|thumb|180px|会津藩の軍旗にある會文字]]
第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で[[親政]]して改革を行ない<ref name="会津藩153">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P153</ref>、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は[[嘉永]]5年([[1852年]])2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで<ref name="会津藩153"/><ref name="会津藩157"/>幕末の動乱期を迎えた。[[安政]]6年([[1859年]])、北方警備のため徳川幕府から[[根室]]・[[紋別]]を譲渡される。[[文久]]2年([[1862年]])閏8月に容保は[[京都守護職]]となり<ref name="会津藩159">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P159</ref>、更に[[新撰組]]を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派[[志士]]の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして[[禁門の変]]では、[[孝明天皇]]を奪取しようとした[[長州藩]]と戦い、一時は長州のからいに圧倒されるも、薩摩藩の救援もあり御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御[[宸翰]]<small>(ごしんかん)</small>」を孝明天皇より賜った<ref name="会津藩162">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P162</ref>。
 
しかし慶応2年12月(1867年1月)に[[孝明天皇]]が崩御すると、既に[[薩長同盟]]を締結していた[[薩摩藩]]や[[長州藩]]との敵対が激化した事態は一変する。慶応3年10月14日(1867年新暦[[11月9日]])の[[大政奉還]]により江戸幕府が消滅。慶応3年12月9日(新暦:[[1868年]][[1月3日]])には[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を経が発令したことで新政府が誕生。薩摩藩の主導によっ長州藩が復権すると、薩長と旧幕府との対立が激化し、慶応4年(1868年)に[[鳥羽・伏見の戦い]]により[[戊辰戦争]]が勃発したする。会津藩は徳川、桑名藩や幕府軍の中心見なされ、主とも[[薩摩藩]]と[[長州藩]]が率いる明治政府軍の仇敵ったが敗北。この戊辰争での結果まだ少年期の[[明治天皇朝廷]]を奉じる明治政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにも拘わらず、「[[朝敵]]」呼ばわりされとし。その後である。東北戦線において、会津藩は[[奥羽越列藩同盟]]の支援を受け、[[庄内藩]]と会庄同盟を結ぶなどして明治政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い([[会津戦争]])に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある<ref>会津若松市観光公社『えっ!?会津が首都??』。</ref>。なお、戊辰戦争直前には、庄内藩とともに、当時の[[プロイセン王国]]に対して[[蝦夷地]](北海道)割譲を案し、その見返りとして列強の武器模索得ようとしていことが分かっている。<ref>だし普仏戦争の直前で余裕がなかったことから[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって拒否されている</ref><ref>2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面</ref>。
 
降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は[[鳥取藩]]預かりの禁錮刑となった。明治2年([[1869年]])に容保の嫡男[[松平容大|容大]]は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在:[[青森県]][[むつ市]])に[[#斗南藩|斗南藩]]を立てた<ref name="会津藩197">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P197</ref>。また、藩士数名はカリフォルニアに移民した。一方、[[廃藩置県]]を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日(1871年新暦[[8月29日]])の廃藩置県では、会津地方は[[若松県]]となったものの、明治9年([[1876年]])[[8月21日]]には[[福島県]]1876年以前(旧の[[二本松藩]]など)と[[磐前県]](旧の[[磐城平藩]]と[[相馬中村藩|中村藩]])と合併され、福島県に入れられた。