「毛利敬親」の版間の差分

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嘉永6年([[1853年]])、[[アメリカ合衆国]]の提督・[[マシュー・ペリー|ペリー]]が来航すると相模国周辺の警備に当たった。[[安政]]5年([[1858年]])8月、密勅を受け、「[[尊王論|尊王]]」に尽力することとなった。同年、坪井九右衛門を引退させ、[[周布政之助]]らを登用。藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。以後敬親は周布を重用し、藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制の導入する改革を開始した。
 
[[文久]]元年([[1861年]])、[[長井雅楽]]を登用し、[[航海遠略策]]により朝廷と幕府との協調策を模索するが、政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって長井の政略は失敗した。この後、藩論は周布や[[木戸孝允|桂小五郎]]らが主導する攘夷へと大きく方針を転換した。文久2年([[1862年]])7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年([[1863年]])4月には藩庁を海防上の理由から海沿いの[[萩城]]から[[山口城]]に移転させ、5([[山口移鎮]])、5月には外国船の打ち払いを開始、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フランス]]の軍艦からの報復攻撃を受けた。同年の「[[八月十八日の政変]]」により長州藩は京を追われた。翌[[元治]]元年([[1864年]])6月、[[池田屋事件]]で多くの長州藩士が会津藩麾下の[[新選組]]によって殺害・捕縛されるにおよび、藩は京に出兵し、7月には[[禁門の変]]を引き起した。この長州の暴挙に対して朝廷は幕府に対し長州征討を命じ、8月には敬親の官位を剥奪した。さらに同月には英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が[[下関市|下関]]に襲来し敗北する([[下関戦争]])。[[長州征討|第一次長州征伐]]が開始されると、[[国司親相]]・[[益田親施]]・[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]]ら3家老を切腹させ恭順し、10月に萩に謹慎した。
 
=== 尊王攘夷から尊王開国、薩長同盟と倒幕 ===