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'''峰翁祖一'''(ほうおう そいち、[[1273年]]〔[[文永]]10年〕 - [[1357年]]〔[[延文]]2年〕)は、[[鎌倉時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]]。大暁禅師。一説には[[鎌倉幕府]]の[[執権]][[北条時宗]]の母の弟ともいれている。
 
== 経歴 ==
*24歳で出家して、[[下野国]][[那須郡|那須]][[雲巌寺]]の[[高峰顕日]]([[後嵯峨天皇]]の皇子)と[[南浦紹明]]の両者に、後に[[大徳寺]]を開山した[[宗峰妙超]]と伴に参禅する。
*[[永仁]]年間、当時[[筑前国]][[大宰府]]にあった[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]に南浦紹明(大応国師)を訪ね、印加を受ける。南浦紹明の高足で宗峰禅師の同門であるが宗峰からも学んだ。
*[[嘉元]]2年 南浦に随て上京した。その後同門宗峰は紫野に大徳寺を創立したので、これを訪ねて碧巌録を研修した。
*[[建武]]年間に[[美濃国]][[遠山荘]][[地頭]]の[[遠山氏]]が礼を尽くして迎え[[大圓寺 (恵那市)|大圓寺]](現・[[岐阜県]][[恵那市]][[岩村町]])を開創して初祖となる。
*峰翁はこの山間幽谷の大圓寺で修行三昧に耽った。[[月菴宗光]]は興国元年に入門して彼の指導を受けた。その他[[大蟲宗岑]]、[[心王性守]]、[[玉林宗璨]]等は、この頃集まった門弟である。
*[[延元]]元年([[1336年]])三河国を行脚しているときに太平寺を見つけ、梵鐘を新築
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*[[延文]]2年([[1357年]])大圓寺にて没する。84才。
==崇福寺文書==
崇福寺は横岳山とも言い九州大宰府にあた臨済禅の道場で、大応国師はこに於て多くの門弟を養成した。峰翁祖一はこゝで入門してその法嗣となったが、師の没後同寺に出世した。其後峰翁の門下もこれに出世した。
*勅賜正宗大暁禅師住横岳山万年崇福寺語録 門人宗雲等編
峰翁禅師行実 時宗胞弟廿四才出家、顕日高峰につく。後大応に学ぶ。晩美濃之明覚山大円寺に入る。法席丕盛。建武丁丑秋九月廿一日忽有微恙、入寂、老衲九十八。
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延元二年丁丑九月廿一日大圓寺にて遷化春秋九八(海蔵寺旧記)
==妙心寺記録==
一、峰翁祖一禅師は南浦大応国師の法嗣であて博多崇福寺の三世、筑前海蔵寺の開山、正宗大暁禅師と話す。海蔵寺は福岡県遠賀郡岡垣村宇内浦にある。
一、峰翁禅師はこれより先勢州桑名城下後藤不干斎の少林寺を創立し、其の上棟の日に於て梁南禅棟禅師を得度す。梁南禅棟の名は之に因んだのである。同師は尾州総見寺の二世である。(妙心寺派 教務本所)
*(大正六年に大圓寺最後の住職[[希菴玄密]]和尚の建碑に際し、恵那郡史の編集者が妙心寺へ問合せた時の回答の抜卒)
==峰翁祖一文献の疑問点==
以上の資料を総合して峰翁禅師の伝記を考えると、禅師は海蔵寺記では鎌倉幕府の執権北条時宗の同母弟であるという。即ち時宗の生母は毛利蔵人の女で[[北条時頼]]の妾であった。時宗は生れて間もなく嫡母北条氏([[北条重時]]の娘)に養育せられ嫡子となった。妾であった毛利氏は後[[北条義宗]]に嫁して数子を挙げたが、その一人が峰翁禅師であったという。駿州の産というのは毛利蔵人の住であろうか、尚同記では禅師の没年を九十八98歳としている。逆算して文応元年の生まれとなり、北条時宗より10歳年少となる。若し高僧伝の説の84歳とすると、23歳の差が出来て同母弟とするは不自然となる。ただ98歳という高齢で月菴宗光当時32歳の壮者を薫陶していたということは何となく不自然な気もする。とにかく海蔵寺記の説は今少し傍証の研究が必要である。
*海蔵寺は福岡県遠賀郡岡垣町の海岸内浦浜に面する山中にあるもので、峰翁禅師が横岳崇福寺で大応国師について勤業中、この地に修禅場として一寺を開いたのが海蔵寺であるという。
*崇福寺は九州禅の道場として[[仁治]]2年[[円爾弁円]]によて開基された。[[文永]]9年南浦紹明がこれに入寺して以来三十余年、九州に於ける禅風の拳揚につとめ、下野国の雲巌寺の高峰顕日と共に東西二甘露門と称せられた。峰翁禅師もここに於て入門したのであった。寺は福岡県筑紫郡千代村堅野にある。大宰府の地である。
*峰翁禅師は崇福寺、海蔵寺、に住して後寺を開山したが、その他に勢州桑名城下に少林寺を創立したと(妙心寺派教務本所)云ひ言いまた美濃国武儀郡の富野に大禅寺、伊予の風早に大通寺等を開創し、尾張の[[妙興寺]]の一世に入寺したと(妙興寺記録)伝えている。これらの寺がどういう因縁で開創されたか詳しいことは分らない。妙興寺は峰翁の門下の心王性守が二世として入寺し、玉林と共に大応禅師の語録を編纂している等、因縁は特に深いが、妙興寺の落成した[[貞治]]4年には、峰翁禅師は既に没後であたし、五十50歳も年長であつた峰翁禅師が滅宗禅師の寺へ入寺するというのは不自然であるから、おそらく峰翁の門下心王性守が二世として妙興寺へ入寺した時、師を奉じて一世としたのではあるまいか。心王は[[応安]]5年開山の滅宗禅師と大応語録上梓に参畫している。次に峰翁禅師の門下に南堂宗薫、的伝宗冑が崇福寺に出世しているが、この人の関係伝記が不明である。
==著書==
*仏祖直伝