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[[画像:Great moravia svatopluk.png|thumb|180px|スワトプルクの治世期 (871-894) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。]]
[[画像:Holy Trinity Column - Saint Cyril.jpg|thumb|180px|right|[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]の像(モラヴィア地方・[[オロモウツ]]にある[[三位一体]]柱の一部)]]
{{出典の明記|date=2015年2月}}
'''モラヴィア王国''' ('''Veľkomoravská ríša''') は、[[9世紀]]から[[10世紀]]初頭にかけて栄えた[[スラヴ人]]の王国。'''大モラヴィア王国'''などとも表記される。現在の[[モラヴィア]]、[[スロバキア|スロヴァキア]]辺りの地域を支配した。
 
== 歴史 ==
スラヴ民族の大移動が発生することでスラヴ民族は続々と東欧に侵入したが、その中でもチェコ族、モラヴィア族は現在のモラヴィア、スロヴァキア方面に移動、630年ごろにはフランク人のサモがサモ王国を建国、それに従ったがこの国は658年には滅亡、サモ王国支配下にあったスラヴ民族は四散した。ただし、チェコ族、モラヴィア族はゲルマン民族、アバール族の支配下ではあったが、この地で自立を守った<ref>[[#ボグダン(東欧史)|ボグダン(1993)、pp.38-39]]</ref>。

その後、9世紀前半、文献にモラヴィア王国についての記述があらわれる。初代君主の[[モイミール]](位830頃-846)は、[[カトリック教会|カトリック]]の[[ザルツブルク大司教]]座による布教をみとめた。しかし、[[846年]]に即位した[[ラスチスラフ]](ロスティスラフ)は、[[東フランク王国]]の圧迫に対抗する必要性から[[東ローマビザンツ帝国]]・[[正教会]]との結びつきを図り、宣教師[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]を招いた。この際に[[グラゴル文字]]が作成された。

しかし、ロスティスラフは東フランク王国と結んだ甥の[[スヴァトプルク]](スワトプルク)に離反され失脚し、スヴァトプルク(スワトプルク)の時代にモラヴィア王国全盛期を迎えたが<ref>[[#ボグダン(東欧史)|ボグダン(1993)、p.39]]</ref>、最終的に東フランク王国に従った。これによってビザンツ帝国から招いた修道士たちは追放され、モラヴィア王国の[[カトリック教会|カトリック]]受容が決定的になった。スヴァトプルクの死後は王位継承をめぐる争い、東フランク王国の圧力、さらに[[マジャル人]]の侵入により荒廃し、10世紀前半に事実上滅亡した。
 
== 関連項目 ==
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* [[ボヘミア王国]]
* [[オフリドのクリメント]]
 
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 参照 ===
{{reflist|2}}
 
==参考文献==
{{Cite book|和書|author=アンリ・ボグダン著 高井道夫訳|year=1993|title=東欧の歴史|publisher=[[中央公論社]]|isbn=4-12-002213-7|ref=ボグダン(東欧史)}}
 
{{Commonscat|Great Moravia}}