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: 17歳の秋、[[番頭]]の藤井宗蔵が[[烏帽子親]]となって[[元服]]し、重好(しげよし)と名乗った。
: 18歳の正月に、道場の席次が5位となる。同年3月、里村[[家老]]の屋敷に呼ばれ、家禄を28石に戻した上、[[郡代|郡奉行]]支配となる旨を告げられた。この時点では葺屋町の長屋からは引っ越さず、郷方<ref>[[海坂藩]]では[[郡代|郡奉行]]の支配下にある役職。通称村回り。村々を巡回して、年貢を決定するための基礎資料として、稲や植林した木の生育を調べる仕事。</ref>組屋敷に移ったのは同じ年の12月だった。同年の秋、松川道場との対抗[[奉納]]試合で興津新之丞に2勝1敗で勝利し、石栗弥左衛門が考案した秘剣村雨を、唯一の伝承者である加治織部正を通して伝授されることとなった。
: 20歳の正月、正式に郷方出役(しゅつやく)見習いに任じられて、城の[[郡代]]屋敷に出仕するようになった。同年2月、岡崎せつと結婚。
: 21歳の時、里村[[家老]]に呼び出され、里村が属する派閥の領袖である元[[中老]]の稲垣と里村に、欅御殿に潜むふくの息子を里村の屋敷に連れてくるようにとの密命を受ける。罠の臭いを感じた文四郎は、逸平と布施と共に欅御殿を訪れ、ふくに事の次第を説明して、共に稲垣派と対立する横山[[家老]]の屋敷に脱出するように願う。その時、村上七郎右衛門が率いる稲垣派の襲撃隊が屋敷を襲ってきた。襲撃隊を退けた文四郎は、ふく親子を一時避難させていた金井村村役人藤次郎宅から、横山の屋敷に向かったが、里村派の警戒が厳しかったため、急遽加治織部正を頼ることにした。その結果、横山派が稲垣派を押さえて実権を握ることになる(以下、本稿ではこの事件を「欅屋敷事件」と呼ぶこととする)。この時の功績により、また父助左衛門の過去の功績が認められ、30石が加増された。
: 欅御殿事件から20数年後、助左衛門の名を受け継ぎ、郡奉行となっていた文四郎は、突然ふくから呼び出しを受ける。