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'''中野忠晴'''(なかの・ただはる [[1909年]]~[[1970年]])[[愛媛県]]出身の歌手。
 
実父が[[キリスト教|キリスト教会]]の専属[[オルガニスト]]([[オルガン]]演奏家)だった影響もあり、地元キリスト教会の賛美歌合唱隊に所属していた。[[武蔵野音楽大学|武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)]]在学中にニッポンレコードでレコードの吹き込みのアルバイトをしていたことと、[[1932年]]春の音楽学校声楽科の新卒業生を集めて行われた新人音楽会で、クルト・ワイルの三文オペラ中の歌、「マック・ザ・ナイフ」を歌って脚光を浴びたことがきっかけで、作曲家・[[山田耕筰]]にスカウトされ、[[コロムビアミュージックエンタテインメント|日本コロムビアレコード(現・コロムビアミュージックエンタテインメント)]]に入社する。
 
コロムビアに入社した当初は、[[ビクターエンタテインメント|日本ビクターレコード(現・ビクターエンタテインメント)]]所属の徳山璉のライバルとしてデビュー。当初は歌謡曲路線を中心に活動していたが、[[1934年]]にコロムビア(ナカノ)リズムボーイズという同社専属のジャズ・コーラス・グループと歌った「山の人気者」が大ヒットし、ジャズコーラスのジャンルを日本に植えつかせた。また、[[六甲颪]]の愛称で知られる[[阪神タイガースの歌|大阪(阪神)タイガースの歌]]を初めて吹き込んだのも中野であった。
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戦後は主に作曲活動を中心にして当時の人気歌手である[[江利チエミ]]、[[松島詩子]]、[[若原一郎]]、[[三橋美智也]]、[[春日八郎]]らに楽曲を提供し続けた。[[1970年]][[2月]][[肺がん]]のため60歳で永眠する。
 
なお、戦前期には[[1933年]]暮れ頃のタイヘイレロムビア以外ードでの仕事アルバイト吹込みで「牧忠夫」、「水田潔」などという別の芸名、コロムビアでも作曲や作詞活動で「柏木晴夫」、「野瀬宇多男」という芸名を用いて活動していたこともある。
 
==外部リンク==
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*[http://www.m-nakano.com/ 中野忠晴の孫、中野マサハル=ジャズ歌手の公式サイト]
 
[[Category:日本の歌手|なかのたはる]]