「仕立屋銀次」の版間の差分
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[[慶応]]2年(1866年)、[[東京市]][[本郷区]][[駒込]]動坂町24で富田金太郎の一人息子として生まれる<ref name=suri>[http://books.google.co.jp/books?id=TeH0t_qzxwkC&pg=PA8 仕立屋銀次]『スリ』坂口鎮雄、柴田臥龍堂, 1914</ref>。父親は紙くず問屋と洗濯屋を営んでいたが、[[浅草]]猿屋町警察署の下請けとして強盗などの検挙に携わっていた<ref name=suri/>。12~13歳ごろ、[[大丸]]呉服店などを取引先とする[[日本橋区]]通り旅籠町1-6の仕立屋・井坂浜太郎の元に奉公にでる<ref name=suri/>。奉公を終えると、浅草小島町に引っ越し、通い職人となる<ref name=suri/>。井坂から大丸の仕事をもらい、[[下谷]][[御徒町]]4-18に居を構え、弟子を従えて独立する<ref name=suri/>。
26歳のとき、弟子の一人であった広瀬クニと通じ、内妻にして[[入谷]]で暮らし始める<ref name=suri/>。クニは、[[鬘]]師でスリの親分である「清水の熊」こと清水文蔵とその妾・和泉シンとの娘であったことから、銀次もスリ稼業に手を染めるようになり、清水の子分たちからの信頼も
銀次たちの専門は主に汽車の中で稼ぐ「箱師」で、[[東海道線]]から[[東北本線|奥州線]]までを縄張りとしていた<ref name=m42/>。手下たちを紳士風に装わせて悪事を働き<ref name=m41/>、そのうわまえをはねるほか、クニの母親のシン名義で[[質屋]]を営み、そこで盗品もさばいていた<ref name=m42/>。銀次の全盛期は[[1902年]](明治35年)ころから逮捕される1909年(明治42年)までだが<ref name=suri/>、逮捕の3年ほど前には跡目を手下の仙吉に譲り、銀次は監督に当たった<ref name=m42/>。[[赤十字]]に寄付をし、日暮里村の村会[[議員]]になる一方で、関西地方のスリとも盗品をさばき合うような互助会的な一大闇ルートを開発し、仲間の交流のための[[待合]]を開いて[[芸妓]]出張所を営業するなど、巨大な犯罪組織を形成していた<ref name=meiji>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920457/22 仕立屋銀次(明治四十二年六年)」]『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷』有恒社、1932-1934</ref>。
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