「モラヴィア王国」の版間の差分

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まだイケル!・・いえ、加筆できるだった・・
ハドリアヌス2世じゃなくてヨハネス8世でした。。。
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しかし、ドナウ川下流域のブルガリア王国の存在がモイミールに警戒感を与えており、フランク王国に服属しつつも独自の勢力を保つようにしていたが、846年東フランク王ルートヴィヒによってモイミールは廃位され<ref>[[#薩摩(チェコ)|薩摩(2006a)、pp.10-11]]</ref>、甥の[[ラスチスラフ]](ロスティスラフ)が王位についた。ラスチスラフは、853年にブルガリアと同盟を結ぶなど[[東フランク王国]]の圧迫に対抗しており、フランク側からの布教に対抗するために[[ビザンツ帝国]]・[[正教会]]との結びつきを図り、宣教師[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]](863年に)と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]](864年)を招いた<ref>[[#ドナウ・ヨーロッパ史|南塚(2002)、p.31]]</ref>。メトディオスはモラヴィア、[[パンノニア]]を管区とする[[シルミウム]]大司教に叙階され<ref>[[#東欧事典|東欧を知る事典(1993)、p.528]]</ref>、この際に[[グラゴル文字]]が作成されたが、これはスラヴ語の福音書の翻訳が法書の著作を行うためであり、フランクの教会に対抗するためのものであった<ref>[[#ドナウ・ヨーロッパ史|南塚(2002)、p.31]]</ref>。
 
しかし、これに対して東フランク王国はラスチスラフの甥、[[スヴァトプルク]](スワトプルク)を離反させ、ラスチスラフを870年に捕らてレーゲンスブルクに送り、盲目にした後に修道院に幽閉された{{#tag:ref|なお、この時にメトディオスも捕らえられたが、ローマ教皇[[ヨドリアヌ28 (ローマ教皇)|ヨハネス8世]]の命令で釈放されている<ref>[[#ドナウ・ヨーロッパ史|南塚(2002)、p.32]]</ref>。|group=#}}<ref>[[#薩摩(チェコ)|薩摩(2006a)、pp.8-10]]</ref><ref>[[#ドナウ・ヨーロッパ史|南塚(2002)、p.32]]</ref>。