「教派神道」の版間の差分

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===独立の歴史===
*[[1875年]](明治8年)4月15日、'''神道事務局'''が開局する{{sfn|村上|2007|pp=105-106}}。
*[[1876年]](明治9年)10月23日:神道事務局から'''黒住派'''、'''神道修正派'''の別派特立{{sfn|村上|2007|pp=105-106}}。
*:神道修正派は、大講義であった新田邦光が富士信仰、御岳信仰の行者を結集した修正講社にはじまり、行者の低俗視から圧迫を受けたため独立を願い出ていた{{sfn|村上|2007|pp=105-106}}。
*[[1882年]](明治15年)5月15日:神道事務局から'''神宮派'''、'''大社派'''、'''扶桑派'''、'''実行派'''、'''大成派'''、'''神習派'''の別派特立{{sfn|村上|1974|p=121}}{{sfn|村上|2007|p=115}}。この時点で国家神道と教派神道が明確に区別される{{sfn|村上|1974|pp=117-122}}。
 
*1882年(明治15年)5月15日:神道事務局から'''神宮派'''、'''大社派'''、'''扶桑派'''、'''実行派'''、'''大成派'''、'''神習派'''の別派特立{{sfn|村上|1974|p=121}}{{sfn|村上|2007|p=115}}。この時点で国家神道と教派神道が明確に区別される{{sfn|村上|1974|pp=117-122}}。
*1882年9月28日:神道事務局から'''御嶽派'''の独立{{sfn|村上|2007|p=119}}。
*1882年10月5日:これまで派名で独立していたが、分派ではないとしてそれぞれ教団となる{{sfn|菅田|1985|p=177}}。
*[[1884年]](明治17年)8月11日、太政官布達により、12年間続いた教導職は廃止された{{sfn|村上|2007|pp=120-123}}。
 
*1884年(明治17年)8月11日、太政官布達により、12年間続いた教導職は廃止された{{sfn|村上|2007|pp=120-123}}。
*1884年(明治17年)10月:神道事務局は有栖川宮総裁のもとで旧淀藩主[[稲葉正邦]]を管長として教派神道の形態を整える{{sfn|村上|2007|pp=120-123}}。
*[[1886年]](明治19年)1月:神官・神職以外の旧教導職が集まり、神道事務局は神道教規を制定し'''神道本局'''(のちの'''神道大教''')と改め独立した{{sfn|村上|2007|pp=122-123}}。神道本局の正式な教派名は'''神道'''だが、一般用語の神道と紛らわしいので、事務局があった場所が神道本局であるために神道本局と呼ばれることが多い{{sfn|井上|1991|p=47}}。
*[[1894年]](明治27年)10月:御嶽教から'''神理教'''が独立。神道本局から'''禊教'''が独立する。
*[[1899年]](明治32年)神宮教は伊勢神宮から生まれていた一教団であったために国家神道の確立と共に、国家事業である[[神宮大麻]]の頒布を任されていることへの批判もあり解散する{{sfn|村上|2007|p=117}}。このときまでは神宮教も明確に教派の一つであった{{sfn|井上|1991|p=11}}。
*[[1900年]](明治33年):神道本局から'''金光教'''が独立。
*[[1908年]](明治41年):神道本局から'''天理教'''が独立。このとき天理教の教師数が21000人ほどであったため、神道本局の教師数が30000人ほどから9000人ほどにまで激減した{{sfn|井上|1991|p=46}}。
*[[1912年]](明治45年)2月25日、華族会館にて三教会同として、教派神道13名、仏教51名、キリスト教7名の代表が集った{{sfn|村上|2007|p=184}}。
*:金光教や天理教は明治政府の弾圧により、神道的に教義を整え教派神道に合流している<ref name="仏教辞典2版">{{Cite book|和書|author=中村元ほか編|year=2002|title=岩波仏教辞典|edition=第二版|publisher=岩波書店|page=220-222|isbn=978-4000802055}}</ref>。
 
金光教や天理教は明治政府の弾圧により、神道的に教義を整え教派神道に合流している<ref name="仏教辞典2版">{{Cite book|和書|author=中村元ほか編|year=2002|title=岩波仏教辞典|edition=第二版|publisher=岩波書店|page=220-222|isbn=978-4000802055}}</ref>。
 
このようにある教団の中により小さな宗教組織が内包されていたのは、[[宗教団体法]]という制度があったからである。宗教団体法では、宗教団体として登記するためのハードルが高いため、小規模な組織は大きな組織に形式上属していることが必要とされた。敗戦後の[[宗教法人法]]では、宗教法人になることが以前より容易になったので、より小さな宗教団体の離脱が多くなる。