「松平綱隆」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[慶安]]4年([[1651年]])12月26日、[[元服]]。将軍[[徳川家綱]]より[[偏諱]](「綱」の字)を賜って'''綱隆'''と名乗り、従四位下信濃守に叙任。[[寛文]]6年([[1666年]])2月、父が死去したために同年4月10日に家督を継いだ。その時に次弟の近栄に3万石([[松江藩#広瀬藩|広瀬藩]])、三弟の隆政に1万石([[松江藩#母里藩|母里藩]])を分与している。同年12月28日、侍従に遷任する。信濃守を止め、出羽守を兼任する
 
父・直政の治世末期からすでに始まっていた社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しなどから、藩内で混乱が始まる。その始まりが重臣[[香西隆清]]<small>(こうざい たかきよ)</small>の追放事件、次いで大水害による大被害である。これらにより、藩内では混乱と財政悪化が隠し切れないものとなり、綱隆は米・雑穀の移出禁止、酒造の禁止、[[藩札]]を発行することなどでこれを切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも延宝元年([[1673年]])には、綱隆が[[小野隆俊]]<small>(おの たかとし)</small>の美貌の妻に横恋慕するあまり、隆俊に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平家はその怨霊を恐れて推恵社に隆俊を祀ったが、綱隆は延宝3年(1675年)閏4月1日に突如として急死した。享年45。跡を四男の綱周([[松平綱近|綱近]])が継いだ。
 
あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたと言われている。