「中国学」の版間の差分

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===キリスト教布教とシノロジーの成立===
16世紀、[[カトリック教会|カトリック]]の[[宣教師]]は中国において[[キリスト教]]の布教をすすめていた。[[明|明代]]末期の中国で初めて本格的な布教活動を行った[[マテオ・リッチ]]を初めとする[[イエズス会|イエズス会士]]たちは、ヨーロッパ科学の紹介を通じて著名な知識人・政治家らと交流して彼らを改宗させ、中国文化・社会に関する知識を蓄積した。そして本国の修道会への報告という形で行った中国事情の紹介が、一般にはシノロジーの成立としてみなされている(このためリッチは最初の中国学者とされている)。初期の調査活動の多くは、キリスト教の布教(ひいては西洋文化)と中国文化をいかに適合していくかという問題に関心が集中していた。西欧における最初の中国学の書は[[1585年]]に刊行された[[スペイン人]]修道士[[{{仮リンク|フアン・ゴンザレス・メンドーサ|en|Juan González de Mendoza|label=メンドーサ]]}}(彼自身は訪中経験はない)による『シナ大王国記』であり、この書はヨーロッパの各国語に訳され広く流布した([[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]『[[エセー|随想録]]』にも引用されている)。
 
中国からヨーロッパに帰国した宣教師たちは西欧におけるシノロジーの制度化の中心となった。この際とくに重視されたのが布教に不可欠な語学の修得である。[[1626年]]にはフランス人修道士[[ニコラ・トリゴー|トリゴー]]が『[[西儒耳目資]]』を[[杭州]]で刊行し漢字のアルファベット転写を試みた。[[1732年]][[ナポリ王国]]出身の宣教師マテオ・リパが、[[ナポリ]]に欧州大陸最初の中国学の学校(「中国学院」(今日の''[[:en:Universita degli studi di Napoli L'Orientale|Universita degli studi di Napoli L'Orientale]]''(ナポリ東方大学)の核))を創設した。イエズス会のマテオ・リパは、[[1711年]]から[[1723年]]にかけて康熙帝の[[満州]]宮廷で画家や銅版彫刻師として働いていた。[[1732年]]に中国から4人の若い中国人キリスト者を連れてナポリに帰国し、全員を中国語の教師とし、[[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]の裁可を得て宣教師に中国語を教える学校を作り、中国でのキリスト教布教を支えた。
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===シノワズリと中国像の変容===
[[17世紀]]から[[18世紀]]にかけて中国でのカトリック布教に大きな役割を果たしていたのはフランス出身のイエズス会士であり、中国学の中心は最初に中国に進出した[[ポルトガル]]・[[スペイン]]・[[イタリア]]から次第に[[フランス]]へと移りつつあった。彼らは[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の後援により中国([[清]])に派遣され、清朝宮廷ではその高い学識・技能により皇帝・高官の信任を得て活躍した。当時のフランスでは[[ジョアシャン・ブーヴェ|ブーヴェ]]『康煕帝伝』など、彼らの見聞・報告をもとにした中国に関する出版物が多数刊行され、この時期の西欧における[[シノワズリ]](中国趣味)の流行の一翼を担った。また海外で活動する修道士の報告書を集成した『イエズス会士書簡集』の編集者である修道士[[{{仮リンク|ジャン・バティスト・デュ・アルド|en|Jean-Baptiste Du Halde|label=デュ・アルド]]}}は[[1735年]]に4巻よりなる浩瀚な『[[シナ帝国全誌]]』を公刊した。当時西欧で流布していた中国のイメージは、実態からかなりかけ離れた開明的な理想王国として描き出すものであった。このことはヨーロッパの[[絶対王政]]と強く結びついていたカトリック宣教師たちが、専制君主たる中国皇帝を西欧の絶対君主になぞらえ理想化していた(例えば[[康熙帝|康煕帝]]とルイ14世)ことと深く関係している。
 
[[Image:François Quesnay.jpg|thumb|200px|ケネー / 中国思想に影響を受け重農主義を提唱した]]
以上のような中国の理想化は、[[啓蒙思想|啓蒙思想]]期にも継承された。この時期、啓蒙思想的なシノローグ(シノロジスト / 中国学者)は、中国の哲学・倫理・法制・美学を西洋に紹介することを開始した。その仕事はしばしば非系統的かつ不完全なものであったにもかかわらず、シノワズリの流行に貢献し、中国文化と西洋文化を比較する一連の論争に刺激を与えた。すなわち彼らはイエズス会士たちとは逆に、自分たちの言論を抑圧する絶対君主を批判するため、中国の文化・制度を理想化したのである。この時期中国に対し好意的な関心を持っていたヨーロッパの知識人のなかには、[[元曲]]『[[{{仮リンク|趙氏孤児]]|en|The Orphan of Zhao}}』に影響を受け戯曲『シナの孤児』を書いた[[ヴォルテール]]、有名な『シナ事情』(''Novissima Sinica'')を書いた[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]もおり、彼らは中国における[[儒教]]や[[科挙]]を合理的あるいは反専制的なものとして評価していた。特にフランスではこの時期以降、中国の思想・教育制度の影響を強く受け、教育においては科挙に範をとって[[バカロレア資格|バカロレア]](大学入学資格試験)が制定され、思想面では[[農家 (諸子百家)|農家]]([[諸子百家]]の一学派)の思想が[[フランソワ・ケネー|ケネー]]の[[重農主義]]にインスピレーションを与えた。また、清代における[[考証学]]の文献批判の方法はヨーロッパの[[文献学|フィロロジー]]に多大な影響を与え、19世紀以後フランスでは、考証学を取り入れた新たな文献批判の方法を、他ならぬ古典学的シノロジーへと適用していった。
 
[[画像:Montesquieu 1.png|thumb|200px|モンテスキュー / 中国社会を「停滞と専制」の社会として批判した]]
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[[19世紀]]以降、[[産業革命]]と工業化に成功した西欧諸国は、それまで通商・外交関係において劣位に立っていた中国に対して全面的な攻勢に転じた。すなわち[[アヘン戦争]]以後、政治的・経済的・軍事的な優位に立った西欧の列強は、自由貿易を通じて中国を国際的な[[資本主義|資本主義経済]]のシステムに編入し、[[市場]]や領土の支配に乗り出したのである。これにより、シノロジーにはそれまでの布教以外に、[[植民地]]的進出という新たな目的が付け加えられるようになった。これにより中国学者の中では宣教師出身者よりも世俗的な学者が多数を占めるようになっていく。
 
この時期、西洋におけるシノロジーの中心となったのは、17世紀以来の伝統と蓄積をもつフランスである。この国では[[フランス革命]]後の[[1795年]]に東洋語学校が設立、次いで[[1814年]]には[[中国語]]と[[満州語]]の講座が、最高学府である[[コレージュ・ド・フランス]]に創設され、ヨーロッパの大学では最初のシノロジー講座となった。そして独学で中国語を学んだ[[{{仮リンク|ジャンピエール・アベルレミュザ|en|Jean-Pierre Abel-Rémusat|label=レミュザ]]}}が、ヨーロッパでは最初の中国語の教授になった。彼に続いて、シノロジーにおける文献批判の方法を確立した[[エドゥアール・シャヴァンヌ|シャヴァンヌ]]が現れ、彼のもとで[[敦煌学]]の[[ポール・ペリオ|ペリオ]]、[[道教]]研究の[[アンリ・マスペロ|マスペロ]]、『[[詩経]]』研究の[[マルセル・グラネ|グラネ]]が出てくるに及び、フランスの古典学的シノロジーはヨーロッパでも最高水準のものとなった。フランスに続いて[[イギリス]]・[[ドイツ]]などでもシノロジーの発展がみられ、英では[[{{仮リンク|サミュエル・キッド|en|Samuel Kidd|label=キッド]]}}([[1797年]] - [[1843年]])、独では[[{{仮リンク|ヴィルヘルム・ショット|de|Wilhelm Schott (Orientalist)|label=ショット]]}}([[1807年]] - [[1889年]])がそれぞれの国で、フランスにおけるレミュザの役割を果たした。そして[[{{仮リンク|ジェームズ・レッグ|en|James Legge|label=レッグ]]}}(英)と[[{{仮リンク|ハンス・ゲオルク・コノン・フォンデルガベレンツ|フォンデルen|Hans Conon von der Gabelentz|label=ガベレンツ]]}}(独)が両国で初めてキリスト教との関係を持たない著名な中国学者になった。
 
19世紀後半になりシノロジーはその知見をさらに広げていくことになる。[[アロー戦争]]後外国人に[[中国内地]]の自由旅行が認められ、西洋列強と中国との非対称的関係がさらに質量ともに深化していくと、それまで情報源を漢文の古典典籍や中国沿岸部に点在するヨーロッパ人居留地での見聞に依存していたシノローグたちは、さらに広く深く中国の内部に分け入ったのである。例えば、イギリスの[[オーレル・スタイン|スタイン]]、フランスのペリオ、ドイツの[[{{仮リンク|アルベルト・フォン・ル・コック|en|Albert von Le Coq|label=ル・コック]]}}によって行われた[[西域]]地方の考古学的探検調査は、各国でのシノロジーの発展に大きく貢献した。またシノロジーの対象分野も拡大していった。すなわち、従来からの古典研究や語学に加え、侵略戦争遂行のための兵要地誌作成や、経済進出のための市場・物産の調査、植民地支配のための慣行調査(19世紀末以後の「中国分割」の結果列強各国は中国領土の一部を直接支配下に置くことになり、行政上このような調査も必要となった)もまたシノロジーの名において行われるようになったのである。とはいえ後者のような同時代の中国を対象とする研究は、古典学としてのシノロジーとは区別されるべきであるとする考え方もあり、現状分析としての中国学は、どちらかというと[[地域研究]]の一分野としての「中国研究」(チャイニーズ・スタディーズ)とみなされ、次第に古典文化を研究する従来のシノロジーとは異なる分野とみなされるようになった(とはいえ、現在においても「シノロジー」といえば双方を包括する概念とされている)。
 
[[20世紀]]に入ると中国学の講座は徐々にヨーロッパの大学で増加していった。特に[[第二次世界大戦]]後、それまで中国学への貢献で大きく後れをとっていた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]においては、[[朝鮮戦争]]以後[[東西冷戦|冷戦]]の焦点となった中国を研究する国際戦略上の必要から、[[ジョン・キング・フェアバンク|フェアバンク]]や[[オーウェン・ラティモア|ラティモア]]に代表される、[[社会科学]]的方法論を駆使した、地域研究としての中国学(中国研究)が大きく進展した。このような、地域研究としての中国学は、現代においては、[[シンクタンク]]の活躍を通じて政治的・政策的な影響力を増している。