「久坂玄機」の版間の差分

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Yasumi (会話 | 投稿記録)
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[[文政]]3年([[1820年]])[[長門国]]萩平安古(ひやこ)石屋町(現・[[山口県]][[萩市]])に[[萩藩|萩]][[藩医]]・[[久坂良迪]]、富子の長男として生まれる。長州藩医きっての俊英で、弟の玄瑞とともに「坂家の連壁(ばんけのれんぺき)」と称せられた。久坂玄瑞とは20歳の年の差があったが、後の玄瑞の思想、行動に大きな影響を与えた。
 
[[弘化]]4年([[1847年]])6月に[[緒方洪庵]]の適塾に客分の処遇で籍を置く。翌[[嘉永]]元年([[1848年]])3月適塾塾頭となる。しかし、翌年、召還の藩命が下り、好生館の都講に任ぜられる。適塾塾頭は同じ長州の[[村田蔵六]]が継承した。長州藩初の藩内[[種痘]]実施に際して、引痘主任を命ぜられ、藩下で種痘を組織的に行った。嘉永3年([[1850年]])6月好生館の書物方を兼任し、また、最年少(31歳)の本道科教授となる。
 
海外事情に通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命により、『演砲法律』、『銃隊指揮令』、『新撰海軍砲術論』、『和蘭陀紀略内編』、『抜太抜亜志』、『新訳小史』など数多くの翻訳書を残した。このような玄機の西洋学問研究は、弟の[[久坂玄瑞]]に相当の影響と感化を与えたと言われている。