「ポーランド・ソビエト戦争」の版間の差分

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[[ファイル:Rzeczpospolita 1922.png|thumb|240px|1920年以降の国境]]
ポーランド政府は、ロシア・ソビエト政府とウクライナ・ソビエト政府との間にリガ条約を締結したが、これはポーランド政府がウクライナ・ソビエト政府をウクライナの代表政府として認めたということを意味するものであった。これはポーランドが[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国や[[国際連盟]]から強い圧力を受けたためであるとはいえ、結果としてペトリューラがポーランドとの共同戦線を張る際に結んだ「ウクライナ人民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認める」という協定に違反したものになってしまった。なお、リガ条約当時ロシアとウクライナには独立してソビエト政府が存在していた。戦争当時ポーランドに亡命していたペトリューラはその後ポーランドを離れてウィーンへ亡命して「西ウクライナ人民政府」を主宰しつづけていたが、その後パリに亡命するとソ連の[[スパイ]]によって[[1926年]]に[[暗殺]]された。
 
ソビエト政府は軍事的な敗北をしたこともあって、領土面で大幅にポーランドに譲歩し、ベラルーシおよびウクライナの西部(ガリツィア)はポーランド領となった。ポーランドも消耗していたため、和平を結ぶことには同意していた。しかし、これは個別和平を結ばないとするウクライナ人民族主義勢力との軍事同盟に反するものであった。このことは、後にソ連の反ポーランド[[プロパガンダ]]に利用されることとなった。