「阪神急行電鉄」の版間の差分

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この時代なら京阪デパートの記事が妥当。阪急軍は誤記を訂正。
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[[1929年]](昭和4年)3月には、梅田駅ビルの改築に伴い前述した「阪急マーケット」を拡張する形で、当時世界でも類を見ない鉄道会社直営の[[百貨店|デパート]]、「'''[[阪急百貨店]]'''」が開店した([[1947年]]に独立会社として分離する)。なお、開業に際しては百貨店経営のノウハウを身に付けるため、百貨店に関係した者をほとんど審査なしで採用したり、アメリカなど諸国のそれの視察を行ったりしている。
 
これに関しては周囲から反対の声も強かったが、「素人だからこそ分かることもある」・「便利な場所なら[[暖簾]]なしで客が集まる」という小林の言もあり、大戦後の長期不況下にもかかわらず盛況を収めた。この鉄道事業者による百貨店経営は、後に[[東急百貨店|東横百貨店]]や[[京阪百貨店デパート]]など、他の私鉄でも採用されている。
 
=== 三宮高架乗り入れ騒動 ===
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もともと、合併対象としては競合する阪神電気鉄道の方が妥当ではないかと見られていたが、阪神は沿線に軍需工場を有しており、さらに政財界へのパイプも太かったことから単独で残ることが可能と判断されたのに対し、一方で京阪は昭和初期に[[新京阪鉄道]](現在の[[阪急京都本線]]・[[阪急千里線|千里線]]・[[阪急嵐山線|嵐山線]]を運営)・[[奈良電気鉄道]](後の[[近鉄京都線]]を運営)・[[阪和電気鉄道]](後のJR[[阪和線]]を運営)などへ過大な投資をし、その債務処理に長らく追われたことから経営基盤が弱いと判断され、結局阪急との統合に至ったといわれている。
 
この合併は形式的には京阪が解散し、阪急が'''京阪神急行電鉄'''と改称する形で実施された。京阪は合併後の社名を単に「京阪神電気鉄道」とすることを提案していたが、阪急側の意向で「急行」が残ったといわれている。なお、公式の略称は「'''京阪神'''」とされ<ref>新京阪線の京都側ターミナルだった京阪京都駅(現・[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]])は合併と同時に「京阪神京都駅」に、[[1945年]]に[[京阪交野線|交野電気鉄道]]を合併した際には「交電磐船駅」を「京阪神磐船駅」にそれぞれ改称している(京阪神磐船駅は[[1948年]]廃止)。</ref>、対外呼称として「京阪神急行」「京阪神急行電車」を用いていた<ref>毎日jp 「震災前の神戸」昭和20年6月の神戸阪急会館写真より</ref>が実際にはほとんど定着せず、利用客は依然として「阪急」・「京阪」・「新京阪」(京阪の有する旧:新京阪鉄道の路線。合併時点では京阪の新京阪線と総称していた)などと呼んでいたといわれている。プロ野球の阪急軍も、京阪との合併期間中を通じて「阪急」の名称を改めることはなかった<ref>1947年に「阪急ベアーズ」、1949年からはを経て「阪急ブレーブス」となる。</ref><ref>同じく私鉄傘下のプロ野球団だった[[福岡ソフトバンクホークス|南海軍]]は、[[南海電気鉄道|南海鉄道]]が[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]と合併して[[近畿日本鉄道]]になったのに伴い、「近畿日本軍」に改称している。</ref>。
 
[[戦中]][[戦後]]には資材不足による車両故障や破損、それに空襲の被害などで運行もままならない状態が続くが、そんな中で[[1944年]](昭和19年)[[4月8日]]には、新京阪線の急行電車が十三駅より宝塚線を経由し、梅田駅に乗り入れる(戦争末期に空襲と事故の影響で一旦中断)などといった、両社の統合を象徴する出来事もあった。